「とりあえず」

ファックスは便利な文明の利器ですがやはりその場所に縛られるというか、メールならケータイとかノートパソコンとかで外で見たりできるんですけどファックスを持ち運ぶわけにいかないので、やっぱメールのほうが便利だよなーと単純に思います。そんなわけで外に出られず、月島のダイレクト・コンタクトには行けず……。気になる。いま月島で何かが起こっているという気がする。


本棚を手に入れたこともあっていま微妙に部屋の模様替えの最中で、仕事の合間にそれをやればいいのですが仕事脳と模様替え脳、というよりは身体の動き(?)のようなものが違うらしくて、うまく切り替えできません。あー、全然進まない。それから気がついてみたら複数のプロジェクトが身の回りで進行していて、そのどれもが面白そうだからちゃんとしっかりやりたいものだと思うのですが、いかんせんどれもそんなに莫大なお金に繋がりそうにないってのが我ながらすごいです。でも、まあ、いいのです。とりあえずは。





ところで今使った「とりあえず」をはじめ、「いちおう」や「ひとまず」や「とか」といった言葉を僕は口癖というか書き癖として使うのですが、それはある時期に意図してそうしたことであって、それまでは「そんなの日本語としてふさわしからぬ!」ぐらいに思っていたのです。しかし考えてみたら日本語というか、エスタブリッシュ日本、みたいなのも大したことねえなと思って、まあそれだったら現在の私そして私の含まれてる社会をより十全に表現するにふさわしいと思われる「とりあえず」「いちおう」「ひとまず」「とか」を駆使して、常に不確定的に現状を先延ばしにすることこそが真にラディカルな態度であると考えるようになったのだった。その頃から私は軽薄な実存主義者に転向していったような気がする。……とかいってまあそんなの大げさに言えばであって、主義もへったくれもなくて逃げてるだけなんですけど。


とはいえ最近は文章の強度のようなものも気になり出しているので、「とりあえず」「いちおう」「とか」「など」はおろか、「らしい」「ような」「だろう」などといった曖昧表現、それから「という」という言い回しもできるだけ避けようと思うことがある。そうした言葉は確定を避ける効果があるのだけど、反面意志の弱さを露呈してしまう面があり、そこはやっぱり善し悪しで強度は一気に弱まってしまう。


それで思い出したけど、一時期、たしか数年前に僕は「しかし」「だが」「けど」「けれども」といった逆説の言葉を使うことを自らに禁じていたことがあった。メールでも一切使わならったからこれはとても不便ていうか、あまりに不便すぎて書けない事柄さえ出て来るし半ば思想改造に近いようなことでさえあったわけですが、少なくとも一年かそれ以上は無駄な努力を続けたと思います。だからどうしたってこともないんですけど、まあ多少はポジティブな人間に近づいたんじゃないかなーと。あの頃の僕がなんでそんな無駄な規則を遵守したのかさっぱり覚えてませんが、たぶん何に対しても容易にそして大した裏付けもなく単なるレトリックで批判や反論が可能、批判&批判そして批判それをまた批判、みたいな世の中のネットカルチャー的言説モードにとてもとても絶望していたのでしょう。


なんにしてもやっぱ書くというのは言わずもがなシャーマニックな要素と結びついているので、何かを召喚するための訓練や規則ならばよいのだけど単に枠を作って嵌めていくだけだったらなんにもならない。とはいえまったく規則を知らない状態では何かがやってきてもそれを形にできないという、つまり自由と規則というのは、これはほんとに永遠のテーマです。