霊園をゆく


彼岸で墓参りに向かう人々の行列を見かけたせいか、霊園のことが気になってしかたなくて、行ってみることにした。単に気分転換で広い土地を歩き回ってみたかったということもあるし、それに僕は神秘主義者ではないのだが、超越的なものというか、理性の届かない領域があることは信じてはいて、だからたまには霊的なものと交わってみたいという気をおこしたのかもしれない。さらに言えば合理的に説明することは難しいのだけど、例えばエクス・ポの増刊号で古川日出男がその日記に僕の名前を書いてくれて、そのことは率直に言って嬉しかったのだが、とはいえ僕は小説家を(もしかしたら編集者としては不遜なことに)「先生」だと思ったことはないが「呪術者」のようであるとは常々思っていて、つまり究めてリスペクトすべき存在だと思っていて、さらにその中でもいかにも呪術の使い手として際立つ古川日出男が文字として名前を書いてしまうというのは、言葉の持つ呪術的な側面を信じている僕にとっては影響力が絶大なのであって、例えばル=グウィンの『ゲド戦記』において真の名前を知られてしまうことが相手の魔術の支配下に置かれることを意味するように、あるいは一昔前の人が写真を撮られることで魂を抜き取られると信じたように、名前を書かれるのはそこに魂が封印されてしまうくらいの一大事であると、僕は畏れたのだった。そういうこともあり、もっと多くの別の霊的なものと交わることでその呪術的封印が解かれるのではないかという気が少しばかりしていたのだが、こんなことを大のオトナが真顔で言っても嗤われるか気がふれたことにされるか変な宗教にはまり込んだと思われるのがオチなので、この文章も適当に気まぐれに手慰みのために書いているのだということにしておきたい。(体調管理のためにも少し文章を書いたほうがいい気がするし)


それにしてもその霊園は初めて足を踏み入れる土地だったので、地図がなければ方向感覚が狂うところだった。綺麗に区画整理されてはいるのだが同じような墓の光景が延々と続いているのだし、「9区」とか「13区」だとかいった無機質な呼称は初見でその仕組みを理解しない者にとって殆ど何の意味も持たない。まっすぐ道は続いているのだがところどころ斜めに走る線もあり、そちらに向かうと東西南北の感覚もズレてたちどころに自分のいる場所を見失う。そういう迷子になる感覚は楽しいと思うのだが、残念ながら(そして当然ながら)霊園内の至る所に地図があって、ごく無難に脱出できたのだった。


でもせっかく霊園を歩いていてもゾンビが次々出てくるスプラッターな映画やRPGの一場面を想像するばかりで、ちっとも敬虔な気持ちにはなれない。そのような愚かな想像は霊的なものに対する冒涜かもしれないけれども、では翻ってみて、果たして死者を想ったり、先祖に祈りを捧げるにはどうすればいいのかということを考えたりもするのである。そして、そういうこと、つまり「死」とか「霊」とか「魂」に関する事柄は通常の理性的な思考回路では難解なもので答えが見出せないから、あくまで先祖を供養するという目的を墓参りという儀式の中にこそ封じ込めたのだろう、とも思い至る。その儀式の中に自分のからだを添い遂げさせていくことが、たぶん敬虔という言葉の内実であり、祈りの本質的な部分であるのだろう。あまりに抽象的すぎるけど。


しかしふっと思考がそれるのだが、死んで行った人たちの墓を観ていてここにはやはり戦死者もいるのだろうかと思った。戦争の体験を現実に持っているかどうか、そしてそれをかなり近いところで伝え聞いたかどうかというのは、やはり大きなことではないか。僕はそれに接近しようと何度か試みたこともあったけれどいつも遠い、どうしても近づけない領域であるように思う。それは、また少し文脈が違うけどもかつて日本には国体というものがあって、それこそが国家を体現していたわけだけども戦後の日本には国体がなくて、だから高度経済成長期を支えたようなナショナリズムでさえもやはり単なる幻想でしかなくて、や、幻想とはいっても国家はあるし法も行政機構も存在したのは事実ではあるが、人々を駆動させたナショナリズムの源泉はやはり幻想に過ぎなかったのかと思うと、国体というものを護持していた世代の生や死と、それ以降の生や死とではかなり意味が違ってくるかもしれないと思う。もちろん、国体というものだってある種の幻想ではあるわけだし、一方で生も死も人間というか生物に普遍的な現象であるには違いないけれども、国体が失われて以降の僕らの生や死というものの持つ意味はかなり変質したはずで、その変質をたしかに僕らは肌で感じているはずではあるけれど、その変質する前の肌感覚は知らないので、どのように変わったのかということをうまく考えられない。しかしもちろん、国体が失われたこと自体に僕はなんの文句も不満もない。


霊園を抜けてしばらく行くと坂があってその下は谷のようになっていた。およそ東京らしからぬ風景だけれども、この景色は青山真治の「路地へ」で観た映像に酷似している。つまり中上健次的な路地をついそこに見出したくなってしまうのだけど、「中上健次的」という表現が僕はあまり好きではなくて、それはひとえに中上健次のことをよく知らないし知った気になってはいけないと思っているし、そのようなイメージに直結させてみたところで本当に路地のことがわかるだろうかという気もするので、とりあえず「路字」は中上とは関係ないという言明をするに留めているのだが、それはともかく果たしてそこが被差別部落なのかどうかはわからない。ただ、田舎に少し帰ってニートまがいのことをしていた時期にいろいろ自転車で乗り回してみて、知らずに迷い込んだ部落のあたりに行くとそれが海沿いであれ山沿いであれそれぞれに異様な土地の力と歴史の暗部を感じたのも事実で、それに近い強い匂いがこの坂の下にも漂っているような気がした。もちろんそれは、僕の中に差別的なまなざしがすでに内包されていてその目で偏見で持って眺めているせいかもしれないけども、坂の下というこの特殊な地形がどのような記憶をこの場所に堆積させてきたのかということも、やっぱり少し気にはなるのだ。