他人と向き合う


この一年、僕がやってきたこと、関わってきたことに対して、いろんな人たちから様々な意見をいただいた。好意的な意見もたくさんもらったけど、批判もさんざん聴かされた。でもそうしたリアクションのひとつひとつに傷ついていた二十代に比べれば、ずいぶんタフというか大人になったと思う。わりとみんな適当なことを口にしてくれるよなー、と思ったりもする。誰かが労力をかけて何かを作るということに対しての、根本的な敬意を欠いていると思う(これは僕に対する批判にかぎらない)。他人の作ったものをゆっくりと受け止める力とか余裕といったものが、僕自身も含めてだけど、今の世の中にはあまりないのかもしれない。でも様々な意見の中にはほんとに鋭い指摘もあったりして、もちろん耳に痛かったりするわけだけど、そうした批判は確実にこちらの心に届いて何かしら考えさせてくれる。安全圏からテキトウに言ってるような批判は全然届かない。やはりそれなりのリスクなり覚悟なりを持って発せられた言葉にはハッとさせられる。心の中で何かが燃える。


無視されるよりは毀誉褒貶に晒されるほうがよっぽどいい。しかも幸いなことに、人づてよりも直接言われることが多いのでありがたい。そういうほうがいい。やっぱり元々の性格が好戦的なのかもしれない。(でもできることなら褒められたいけどね)





ところで昨日、新進気鋭の若いアーティストたちによるプロジェクトの打ち合わせで、その取りまとめ役の人が「この企画は確実に誤解を招くだろうし、それを逆手にとって始めるしかないのだ」というようなことを言っていた。なるほどそうした誤解を織り込み済みにやるという強い気持ちがなければ、何もできないし、若いアーティストを守ることもできないのだろう。大人の覚悟を感じる。


しかし……衝撃的だったのは、そのアーティストのひとりが高校時代の同級生を打ち上げの席に招き、今はまったく違う道を歩んでいる彼に対して一生懸命に自分の考えを説明しはじめたことで、空気を読むとか読まないとか、そういうのまったく関係ない、あきらかに場違いであるのにも関わらず、それでも誤解を誤解のままに終わらせないでなんとか伝えたいという気持ち……そのどこかあまりにも懐かしすぎる光景を観てショックを受けた。とうの昔に捨ててしまった「わかってほしい」というアンバランスな強い気持ちを目の当たりにして、少し不愉快になると同時に、心が震える。





迷惑メールフォルダに、「最近自分と向き合ってますか? 本当の自分って知ってますか?」と書かれたメールがあった。余計なお世話だってば。