テンションと饒舌


タナダユキの『月とチェリー』の中で、主人公の男の子が訳あって歳上の女の人とセックスすることになり、そこで泣きながら「俺はこんなことしたくないけど、お姉さんにこうされると勃っちゃうんだよー」と訴えるシーンがあるけど今の僕はまさにそんな気分で、いや違うかもしんないけど、もう本当に誰にも会いたくない、私は貝になりたいと思っているのに人に会ってしまって、しかもお酒を飲んで、最終的には楽しいことになってしまい、そして次の日どよーん、鬱、しぬー、でもまた人に会って飲んでどーん!どよーん、みたいな繰り返し生活の結果手に入れたのは不眠症だった。


でもこんなふうに夜中にぱっちり目が覚めてしまうという程度のことは、本場の不眠症に比べれば全然大したことなくてパッチモンで、そりゃ週に4回くらい朝まで飲んだりしたら食事とか睡眠とかのバランスが崩れるのは当たり前だっつー話なんですけど、しかしじゃあ眠れない時間を有効活用してしっかり本でも読もうか、ということを実行できるだけの体力と精神的な安定もないからついついパソコンなんか立ち上げて他人のブログを読んだりする方向に走りがちで、その結果たくさんの饒舌なテキストに触れるとそれがさらに麻薬みたいになって浸透し、心を落ち着かせる一方でもっと、もっと饒舌に書いてよアナタたち、その物量で俺を飲み込んでよもっと!というハイテンションな危ない気分にもなってくる。




饒舌に関する話はこないだの柿喰う客についてのエントリーでも書いたし、プロ読者論の立川イベントでも質問として提出したのでその後打ち上げで矢野くんにも絡まれたけど、いや、絡まれたというのはちょっと嘘で友好的な実のある議論になったんですけど。ちなみに矢野くんというのはDJとか漫画家とか文筆家とかいろいろやってるのに実はすごく若いという多才な高校教師で、テルポにも執筆者として書いてもらってるので詳しくはそちらのプロフィールを観てもらうとして、ともかくその矢野くんに飲み会で鋭く突っ込まれた時にも言ったのだけど、やはりある種のタイプの饒舌というのはテンションがきわめて重要な要素になってくると思うのです。


テンションによってスピードで押し切る饒舌というのは、僕自身の中にもそういう資質がおそらくあるし完全に嫌いってことでは全然なくて、でもやはりそれだけではキリキリしているというか、身を削って切り売りしていった結果痩せ細っていく感じがあるし、どこか現代病理的なものを感じないでもない。だからそれとは別のタイプの饒舌を考えましょうという時に、まずはプロ読者論の中でも再三話題になったようなリチャード・パワーズとかエンリーケ・ビラ=マタスのような博覧強記型の教養あふれる饒舌というものが真っ先に思い起こされるのですが、教養主義が失われたこのニッポンの中でそういうことをやろうとすると、せいぜいオタク的もしくはサブカル的な固有名詞羅列みたいなことになるか、よくてクリシェ的戯れ言をテレビドラマとかCMとかからサンプリングしてきてそのありふれたデータベースを「ポストモダンわかってますよ」的な身振りで消費することに浸る、みたいなことで終わりそうなので、そう簡単に消費されるものではないタイプの饒舌として、〈物語る〉饒舌、つまり『百年の孤独』のようなタイプの饒舌というものを考えてみたい。

 長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思いだしたにちがいない。マコンドも当時は、先史時代のけものの卵のようにすべすべした、白くて大きな石がごろごろしている瀬を、澄んだ水が勢いよく落ちていく川のほとりに、葦と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。ようやく開けそめた新天地なので名前のないものが山ほどあって、話をするときは、いちいち指ささなければならなかった。毎年三月になると、ぼろをぶら下げたジプシーの一家が村のはずれにテントを張り、笛や太鼓をにぎやかに鳴らして新しい品物の到来を触れて歩いた。最初に磁石が持ちこまれた。手が雀の足のようにほっそりした髭っつらの大男で、メルキアデスを名のるジプシーが、その言葉を信じるならば、マケドニアの発明な錬金術師の手になる世にも不思議なしろものを、実に荒っぽいやりくちで披露した。家から家へ、二本の鉄の棒をひきずって歩いたのだ。すると、そこらの手鍋や平鍋、火掻き棒やこんろがもとあった場所からころがり落ち、抜けだそうとして必死にもがく釘やねじのせいで材木は悲鳴をあげ、昔なくなった品物までがいちばん念入りに捜したはずの隅から姿をあらわし、てんでに這うようにして、メルキアデスの魔法の鉄の棒のあとを追った。これを見た一同が唖然としていると、ジプシーはだみ声を張りあげて言った。「物にも命がある。問題は、その魂をどうやってゆさぶり起こすかだ」。自然の知慮をはるかに超え、奇跡や魔法すら遠く及ばない、とてつもない空想力の持ち主だったホセ・アルカディオ・ブエンディアは、この無用の長物めいた道具も地下から金を掘りだすのに使えるのではないか、と考えた。「いや、そいつは無理だ」と、正直者のメルキアデスは忠告した。しかし、そのころのホセ・アルカディオ・ブエンディアは正直なジプシーがいるとは思わなかったので、自分の騾馬に数匹の仔山羊を添えて二本の棒磁石と交換した。妻のウルスラ・イグアランはこの仔山羊をあてにして、傾いた家の暮らし向きをどうにかする気でいたが、その言葉も夫を思いとどまらせることはできなかった。「いいじゃないか。この家にはいりきらないほどの金が、明日にもわしらのものになるんだ」。これが夫の返事だった。彼は何カ月も、自分の推測の当たっていることを証明しようと夢中になった。メルキアデスのあの呪文を声高くとなえながら、二本の鉄の棒をひきずってあたり一帯をくまなく、川の底まで探って歩いた。ところが、そうまでして掘りだすことのできたものは、わずかに、漆喰で固めたようにどこもかしこも錆びついて、小石の詰まったばかでかい瓢箪そっくりのうつろな音がする、十五世紀ごろの出来の甲冑にすぎなかった。ホセ・アルカディオ・ブエンディアと四人の男が苦労してばらしてみると、女の髪をおさめた銅のロケットを首にかけ、白骨と化した遺体がなかからあらわれた。


というのが『百年の孤独』の冒頭部分で、新潮社さんにはちょっと悪いと思ったんですけどでもこれをネットに晒されることによって売上げが下がるということもないだろうし、これくらいの物量がどうしても欲しかったので冒頭から最初の段落が終わるまでの部分をすべて書き写させてもらいました。で、それで思ったのはまずこれだけのどかーん!とした感じの質量のものを書くとなると文字変換ソフトが普段僕の使ってるものでは全然ダメで、「火掻き棒」すら「日か希望」に変換される阿呆では話にならない。やっぱATOKくらいはインストールしないとリズミカルにスムーズに書くことは不可能だと思われる。それから部屋が寒いのもダメ。冬の夜や朝は手がかじかんでつらい。で、次に見え方の問題として、今書き写した文章を単行本で読むと見開きにちゃんと収まるのだけど(43W×19L)、例えばブログなんかでこれだけの分量がある文章を読むと果たしてどう見えるか?と思って今回は書いてみたわけです。僕は本というメディアに対してあまりフェティッシュな感情を持つことはよくないと思っているところがあるのでなるだけモノとしての本へのオマージュは抑制しているつもりなのだけど、とはいえ本というメディアがパラパラとめくれてなおかつパッと見た目で情報を一瞬にして把握できるという強みはものすごくあるし、例えばこの冒頭シーンを僕は今新潮社の新装版で読んだのだけど、そこではページの余白も含めた全体を視覚情報として入手しているわけで、さらに言えばページとして使われている紙の厚みとか手触りとかいったものも同時に体感しているわけで、やはりそういった残余とか無駄といったものも込みでパッケージされているっていうのが本という媒体の強みだと思う。


何を言いたいかというと、やはり饒舌のタイプには【1】どういう環境で(気候、時間帯、生活水準etc.)【2】何をツールとして使って(PCかケータイか紙か、変換ソフトはetc.)【3】どういった媒体に書くか(本とか雑誌とかブログとかetc.)といった要素が関わってくる、ということで、さらに言えば、【4】そうした書くという行為の繰り返しによって形成される書き手の精神状況といったものにも左右されるだろう。で、うっかりのんべんだらりとブログ文化(?)的なるものの上に胡座をかいていたら、っていうかそれが「若い世代にとって当然のもの」だなどと思って受容しているばかりだと、そのような種類の【1】【2】【3】【4】に流されていくだろうし、それが結果的にテンションに依拠するタイプの饒舌を導いてしまうのではなかろうか。で、そういう饒舌を全否定しないまでも「ちょっとなー、これでいいんだろうか」と疑問に思う部分もあるので、何か別のもの(血なり、知なり)をどこかから持ち込んできたいということは思ったりもするわけです。




で、今日は岡田利規演出の『友達』をシアタートラムで観たのだけど、これが当日券だったので立ち見でさすがに腰にはダメージだった、という話はさておくとして、『友達』を観て「わー、安部公房だー」という、なんとも至極当たり前の反応がまずなによりも僕の中に起こったのだけど、ひさしぶりに安部公房的な世界に触れてみると(といっても超安部公房を読みまくっていたというわけではないけど)、ある会話と次の会話とが、必ずしも前の会話を受けるような形では進んで行かないというこの不条理な流れはあらためて面白いと思って、そのズレのあいだには間(ま)というか時間というものがある。その間(ま)の中では、次に何かが起こるという予感があって、例えばある役者が発言をしそうになるから観客はそっちのほうに目がいくのだが、次に喋り出すのはその役者ではなくて全然違う役者だったりして、そこで観客ははぐらかされるのだけど、たぶん岡田さんが演出したのであろうその「はぐらかし」という手法はそもそも安部公房的なナンセンスの感覚に通じているものなのかもしれない。


ナンセンスとか不条理とか呼ばれるものは、その直前の発話に対してそのまま100%引き継ぐようなことはしないで、そこに異なる文脈や内容を持ち込んでくる。するとものすごくチグハグな印象になるのだけど、ではそのチグハグな会話の集積にどうやってひとつの物語としての統一感を持たせるかというと、文章でいえばそれはおそらく文体がそうさせるのであって、例えばデュラスの『モデラート・カンタービレ』なんかは文体のリズムとかそれが作り出す雰囲気によってさらさらと読めてしまう。では演劇の場合はどうなるのか、というと僕にはさすがにちょっとわからないけれども、やはりそこにも文体に代わるような一定のリズムなりなんなりがきっとあるはずで、例えばそれは役者の身体の動き方とかでもいいのかもしれないけど、しかし今回の岡田さんの演出はさっきも書いたように間(ま)とか時間を意識したもので、あえて役者が動かないというブランクを持ち込むことで「はぐらかし」をやっていたような気もする。それはかなり大胆な挑戦ではなかろうか。


そしてそして、なぜ今『友達』の話を持ち出したかというと、それがほとんどまったくテンションに依拠していない(と僕には見える)ということで、いやもちろん、特にお父さんやお爺さん役の人の演技はある種のテンションの高さを感じさせたけども、逆に若い衆がまったくもってローテンションなのが面白かった。というのは、これは一瞬演劇から離れるようで離れないような話として言うけれど、若い子たちが大人たちのあいだに混じって存在するとしたら、やはりローテンションでは怖いというかテンション高いほうが「若いなあ」というふうに見てもらえるからラクというかオイシイ部分があるような気がしていて、いま典型例としてパッと思い浮かんだのが保坂和志の『プレーンソング』に出てくる住所不定の若者で映像やってるアキラってやつなのだけど、ああいうちょっと動物っぽいというかペットっぽいけど何考えてるかよくわからない、でも元気なことだけはわかる、というような在り方がある種の、若者が大人たちのあいだに混じるひとつの方法ではあると思う。




というのもここから急に個人的な話になってくるけども、僕はこの歳になってようやく周囲をふと見回したら自分が最年長、みたいなことが多くなってきていて、こないだの法政の「アクロス、ザ・ユニバース」の打ち上げの席でも終電後の世界は若人だけになっていて明らかに僕が最年長で、にもかかわらず人生初めての(そしてたぶん最後の)王様ゲームとかをやらされて断ることもできず、しかもいきなり「王様」を引いてしまって後に引けなくなって悪ノリして「じゃあ1番と13番がディープキスね!」とか言って大ブーイングを浴びながらも結果的に女子同士のキスというすごい場面を目撃させてもらって「これ宝物にするわー」とか言って喜んでる俺ってどうなのよという冷めた気持ちもなくはないが(いちおう念のためにエクスキューズしておくと学生さんにはそんなハラスメントなことはやらせてなくてちゃんと大丈夫そうな人にやってもらってますし学生さんたちの大半はむしろほとんどこのゲームに興味関心を示しませんでした。それが僕としてはショックなくらい)、そうやって馬鹿みたいにはしゃぎはじめたのはごくごく最近のことで、昔はどこへいっても「若いのに落ち着いてるよねー」ということを飲み会に行っても女の子とデートしても必ず言われて、言われるうちに「ふーん俺って落ち着いてるのか」というふうに自己規定していってますます落ち着いてしまうという老成した感じのイヤな若者だった。でも「若いのに落ち着いてるよねー」というセリフにはたぶん裏を返すと「落ち着いてていいね」っていうよりは「落ち着いてんじゃねーよコラ」的な批判的なメタメッセージが含まれていて、というのは落ち着いてる若者というのは何を考えているかわからないから周囲の大人から見たら怖いということがあるだろう、ということを、僕もこの歳になって感じるようになった。僕が十代とか二十代の前半の時でさえそういうふうに周囲から言われ続けたのだから、今時の「空気読め」的な状況の中では若者はなおさら陽気に振る舞うことを要請されるのではないかという気がする。陰気な人間には辛い時代だ。


それで繋がってきそうな話として、こないだ赤坂大輔さんのブレインズの打ち上げの席で、八〇年代くらいから映像が明るさを求めるようになってきたという話があって、それで宮沢章夫さんが講義録の本の中で再三書いていたタモリの話を思い出したのだけど、あの頃からネアカとかネクラとかいう言葉が生まれて、そういうことをタモリも言ったりして、それでどちらかというと明るいほうがいいよね、みたいなことになってきた経緯がごく大雑把に言えばあったりするのだろう。


そして僕も実はわりかし明るいものが好きだ。いいじゃないの、楽天的で。




でもそれで明るくてキラキラした世界でわー、キャー、どーん!どよーん、みたいなことのジェットコースターの繰り返しみたいなことをこの先もずっとやっていきたいというふうには全然思わない。だからちょっと日々の生活とか、生きているその時間とか、書く時の書き方といったようなものを少し考えようかなと思ってひとまずこうして長々と書いてみた。ほとんどは不眠的状況に対する自己療養的なもののために書いているのでそんなところにいろんな作品を持ち出してしまうのはその作品たちに申し訳ないという気持ちもちょっとあるけれど、しばらくは、思いついたらだらだらと書いていくというパターンでやっていこうと思ってるので、というのはこのところ気になっている「記憶喪失」へのひとつの対処法としてある程度以上の分量でダラダラ喋る(書く)ことによって記憶の断片を呼び起こして連鎖させていくということをやってみたいので、最近は初めて会う人から「ブログ読んでます」と言われることがすごく多くなっていてせっかくそれなりに読者もついてきたらしいこのブログではありますけれど、明らかに読者を失うような方向で饒舌に進めていきたいと思っています。とはいえ心配せずともそこまで暇でもないので適当なペースで書くはずです。よろ。あ、ちなみにこれ、テンションによる饒舌を全面的に批判してるとかではなくていったん宙づりにして考えましょうってことですよ。あしからず。



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