作家の裏切り


ひさしぶりによく寝た。ただ昨日の件がイメージとして強烈に残っていて、僕の中ではいまだにくすぶっています。具体的に何が問題だったかというと、役者が特に面白い動きや発言をしているわけではないのに終始客が笑っていて(でもシリアスっぽいところではいちおう黙っているからいかにも現代日本人っぽく空気は読んでいる)、劇自体がナンセンスな要素を孕んでいる悪夢のような構成にも関わらず、客の弛緩した笑いの中にすべてが埋没してダラっとなってしまう。それがかなり気持ち悪かったです。最初は自分の体調が悪いかなんかでその笑いについていけないのかなとか考えたけど、いちおうこちらにも多少なりともいろいろなものを観たり聴いたり読んだりしているという経験値はあるわけで、それに照らして考えるかぎりどうもそうではないということがわかってきて、とするともうこれは、なんだか笑いのセンスが違うパラレルワールドに舞い込んだのかと思ったりもして、そういう意味では大変に貴重な体験だった(これは皮肉です)。でもいくら緩いといっても、こういう緩さは僕には堪えがたい。僕が演劇を一時期観なくなったのもこの観客の笑いが原因で、「私は常連でよくわかってますよ」的な客の笑いというものが劇場を覆うようになったら、少なくともその劇団が僕にとって面白いものを提示してくれることはもはやないと思います。それはその劇団の評価が高まって、集客数が増えていったせいでもあったから本来は祝福すべきことなのかもしれないけど、僕はどうしても生理的にアウト。


なにしろ僕は昔から「ファン」と「信者」が苦手で、つまり批評精神がなく、対象との距離感もなくべったりとくっついたようなものが生理的にどうしても受け入れられなくて、人付き合いでも別にしょっちゅう会うとかは全然オーケーだし、なんなら毎日会ったって構わないし、ある目的の遂行のために集まって恊働作業をするとかだったら全然平気だけど、目的を失ってもなおサークルを形成してつるむような感じになってくるともうほんと逃げたくなる。自分が作ったものであれば解体する。いつでも外に出られるという退出の自由、いつでもそれを終わらせられるという活動停止の自由が確保されていないと、厳しい。そういう人間だから、頑固で偏狭でうがったものの見方をしている可能性は大いにあるけど、最近観ていた小劇場の演劇ではそういう類いの共同体的な気持ち悪さを感じることはまったくなかったのだから、やっぱりこれはなんか少し「違う」部分があるのだろうと思う。


もしかしたら、あの阿呆な薄ら笑いを浮かべた客どもはむしろサクラかなんかであって、異様に気持ち悪い失笑の空間をつくりあげるための演出なのかもしれず、そして本当に面白いところでは誰も笑わないという滑稽さをあえて嗤うための超イジワルな前衛劇なのかもしれないと思ったりもしたけど、やっぱりそう考えるのは無理があるし、むしろ劇自体の方向性としては真正面から主題に取り組もうとしているように感じられた。ただ観ていて途中で思ったのは、これ俳優をずっと黙って立たせてたらどうなるんだろうってことで、それでもこの阿呆な客どもが笑いつづけるかどうか試してみたいという欲望が頭をもたげた。最近そういう劇があったらしいから、観たかったなあ。できれば何の予備知識もなく、いきなり行ったらそんなんだった、とかのほうがいい。もしかしたら「金返せ」とか思うかもしれないけど、昨日僕が思ってほんとに途中で叫びそうになった「金返せ!」よりもよっぽど肥やしになる「金返せ」だと思う。




大人の意見でいえば、出版部数であれ、観客動員数であれ、ある程度規模を拡大してメジャー化を図るのであれば、「ファン」ないし「信者」の獲得は戦略的にも必要不可欠だってことはわかるし、あるいは雑誌にしても劇団にしても長く続けるということがひとつの美徳であるとするならば、そうした固定化はある程度まぬがれない事態であるということに、いちおう納得はできる。いちおう大人ですから。でもやっぱり僕が面白いと思う作家たちだったら、さらなる高みや新奇なものを目指して、あるいは既存のものであればより深いところに潜ろうとして、そのためには「ファン」や「信者」を裏切ることも時には厭わないのではないか、と信じたい。でもそれは別に閉じていくことではないし、規模を縮小していくことでもない、と僕は思う。その場合、次の作品を読んだり観たり聴いたりするのは、その作家の裏切りに耐えた者たちと、評判を聞きつけて新たにやってきた者たち、そして出会い頭でその作品にうっかり触れてしまった者たちである。そのさらに次回作では、また新たな裏切りによって客が淘汰され、あるいは新規に参入してくるだろう。我々が目指すべき理想は、そういうサイクルによって徐々に荒野を開墾していくことではないのか? そういう新陳代謝のサイクルの中に、「ファン」や「信者」は存在しないだろう。だって彼らが求めているのは安住の地であって、裏切りの中を移動しつづけることではないのだから。


以上はあくまで僕が思い描く理想にすぎなくて、現実には多くの人は安住の地を求めていて、だからそうした客たちに対して〈裏切り〉ではなく〈約束〉を与えていくことこそが、経営の安定に繋がるもっとも近い方法である、と考えられている。でも、ほんとかなあ……? そうやったら食える、成功する、っていうのも、ひとつの幻想というか、自主規制のパターンではないか。まあ、とはいえ何にしても劇そのものに関しては判断を性急に下す必要もないので、とりあえず昨日の劇については、たまたま昨日の客が悪かったのだというふうに考えることにして、また観に行きたいと思います。それでもダメだったら、もはやそういう笑いも劇中の雑音のひとつなのだと思うように努めるよ……。無理だろうけど。