だだをこね、られない


「Review House 02」をぱらぱらと読んでいたら、福住廉さんの「ポスト・ナンシーイズムのために――「オタク」という呪縛の彼方へ」という文章があった。ナンシー関のテレビ批評が持っていた「非オタク性」を再評価するもので、非常にシンプルで読ませる文章だったし、要旨も響くものがあった。その一方で、ある人のブログで、僕の最近の一連の観劇に関する発言を受けてさらりと一行だけ書いてある文章があって、おいおいそれはまったく違いますよ、と思ったので福住さんの文章を引用させてもらいながら長い反論を書いたけど、いざアップする段になって推敲するうちに、そういう論争が無意味に思え、げんなりしてしまったので、やめておきます。ふーん、そんな一行で片付けられちゃうんだ、という状況の前に、いくら饒舌な言葉を尽くしても無駄としか思えない。自分が阿呆(ドン・キホーテ)に思えてくる。


ただ、書いてみて、オタク的なコミュニケーションのありようをいかに自分が嫌悪しているかということはよくわかりました。これはたぶん、18年前に初めてオタクに触れたその日から抱いている感覚ですが、幼少時の体験を過度に恨みとして思い込むことが危険だということは最近も証明されたばかりなので、やっぱりあまり溜め込まずに思ったことはその都度どんどん言っていくほうがよいのでしょう。けれども、思ったことが受け入れられるだけの土壌があるのかどうか、ということは考えざるをえません。別にそのまま肯定されなくともよいが、話すらまともに聴いてもらえないという状況はやっぱり今でもあるのでしょう。先のブログを書いた人も、まったく僕の話を聴いていたとは思えないので(メールやブログではなく直接会って話したのに)、どうしてああいうことがいとも簡単に書けるのだろうと不思議に思うけど、まあでもいいです*1。世の中にはさまざまな感性があり、価値観があるのだ、という前提に、まずは立つことにしましょう。そのうえで、僕自身も含めて、みんながみんな、自分の聴きたいことしか聴かない、というような状況の外へどうやったら抜けられるかについては、ポジティブに考えていこうと思います。説明とは別のやり方で。


このエントリーに関して何か言いたい方は、せめて「Review House 02」を買って福住さんの文章を読んでからにしてください。それくらいの最低限のコストをかけた上であれば、有意義な対話も可能でしょう。ではサヨウナラ。

*1:でもほんとはよくない。だってあなたの観たものは所詮あなたの頭の中だけの妄想ですよと言われてるようなものだからね。この目や耳を頭ごなしに否定されているわけだから。