赤い河


こ、これはすごい……! もう観ながらゾクゾクしてしまった。ジョン・ウェインが女に別れを告げるシーンから始まるので、一見するとジョン・フォード監督の『駅馬車』の続編のように見えなくもないけれど、このシーンで女が「一日には昼もあれば夜もあるのよ、夜になれば私が必要でしょう」とセクシーに彼を説得にかかっていて、それが何気にずっと伏線になっているという……。いやいやいや、そういう些細なことじゃなく、とにかく大傑作!




ハワード・ホークス監督の1948年の映画。テキサスに牧場を作るため、必ず迎えにいくからと「ナイフに刺されるような」気持ちで女と別れたダンソン(ジョン・ウェイン)と従者グルート(ウォルター・ブレナン)だったが、今離れてきたばかりのキャラバンがインディアンに襲撃されたらしく、煙が立ち上るのを遠くに見てしまう。さらにその夜、襲いかかってきたインディアンを撃退したダンソンたちは、やはり襲撃によって孤児になっていた不敵な少年マットを一行に加え、三人で赤い河を渡って新たな土地に移住した。そこはすでに別の人間の領地であったが、警告に来た男を得意の早撃ちで殺したダンソンは、そこが自らの土地であることを宣言し、牛に自らのイニシャルを象った焼き印を押す。


やがて、たった2頭の牛から14年かけて10000頭の牛の所有者になったダンソンは、成長して南北戦争から戻り、やはり早撃ちの名人として知られるようになったマット(モンゴメリー・クリフト、これがデビュー作)らと共に、牛を売るために2000キロ近く離れたミズーリに行くことを決意する。南北戦争が終わった直後で南部は疲弊し、せっかく育てた牛がまったく売れない状態だったのだ。しかし10000頭の牛を移動させるためには、せいぜい1日に16キロしか進めない、それでも行く人間だけ付いてこい! とダンソンはリーダーシップを発揮して牧場のカウボーイたちに呼びかける。「ただし、契約した以上は最後まで付いてくること」。グルートを始め、何人かの人間が契約書にサインした。(この時、嬉々としてもったいぶってサインするグルートは文字が書けず、紙に記すのは単なる×印である。)


ついに牛の群れとカウボーイたちの大移動が始まる。その牛が途中で暴走したり、河を渡ったりするなど、おそらく映画史上稀に見る壮大なシーンがCGナシで展開されるという超スペクタルなことになったりするのだが、そうした数々の困難の中で造反者が出るなど、やがて一行は疲弊し、疑心暗鬼が立ちこめ、不穏な空気が満ちてくる。ダンソンは急速に求心力を失いつつあった。そんな折、鉄道がアビリーンにも通っているというウワサが流れる。遠くて危険の多いミズーリへの道よりも、まだしも近いアビリーンへ向かえば、そこで牛が売れるのではないか、と誰もが思う中で、しかしダンソンただひとりだけが「ミズーリへ行く」と言い続ける。その理不尽で頑固な命令に従い続けるマットだったが、14年ぶりに再び赤い河を渡った直後、ある事件がきっかけで、ついにダンソンに銃を向ける……。




と、あらすじだけをつらつら書いてもまったくこの映画の凄さが伝わらないと思いますが、ストーリー的にはここからがさらにさらに面白く、しかしネタバレになるので控えておきます(別にもう時効だろうけど、やっぱ観てない人もいると思うのでその楽しみは奪いたくない。ちなみに僕は観ながら「なんてこった……」と思わず何度もつぶやいてしまいました)。いやーしかしすごいですよ。なんか「男の友情」がウリみたいなパッケージのされ方をしてるみたいですけど、そんな言葉で言い表せるものじゃ全然ないですよ。もう全然食うか食われるかのスリルだし。父と子の話といえばそうかもしれないけど、二人の血が繋がってないのもいい。当然ながらヒロインがいて、キスシーンはなんともうっとり。拳銃を使ったガンマンのシーンも最初から最後まで素晴らしい。猜疑心も信頼も、悲壮感も開放感も、ぜんぶある映画。まさに一日には、昼もあれば夜もあるのだ。


ラスト、一仕事やってのけたあとのモンゴメリー・クリフトの表情はなんとも魅力的で、レオナルド・ディカプリオにそっくりだと気づく。ディカプリオのあの笑顔は彼を真似したのではないかと思うほど。しかし『ギルバート・グレイプ』で太った母親がテレビで観ているのがモンゴメリー・クリフトの出ている『終着駅』なので、ディカプリオが彼を参考にしていたとしても、まんざらおかしくはない、のかもしれない。ちなみにモンゴメリー・クリフトという人物はあまり幸福な人生の結末を迎えたわけではないようだが、この映画で見せるあの満足げな笑顔にはまだ、そんな陰は微塵も感じられないのだった。


あとこれって絶対、宮崎駿の『紅の豚』の元ネタにもなってるよね、完璧に。まあとにかく、大興奮でした。