東京物語


ラスト10本目の小津安二郎は、あえて何度か観ている『東京物語』(1953年)にしました。あらすじ解説などはもはや不要でしょう。そしてこの映画が、映画史のみならず、社会史、思想史的にも重要なものであるだろうことは、あらためて確認することができた、のですが。


どうもこの映画は出来すぎていやしないだろうか。うまいけど、うますぎる。完璧に作り込まれていて、何か予期せぬものが生まれてくるような感じがない。それだけではなくて、人物のセリフにしても物語の環境設定にしてもあまりに示唆的な素材が随所にバラまかれていて、評論家的なメスの入れどころが無数にあるために、いくらでも鬼の首をとったように「解釈」が可能だろうな、というところが、どうにも気になってしまうのです。都市論、社会学、文芸評論といった様々な文脈での「解釈」が可能だろうし、「解釈」好きな人たちは嬉々としてこの映画について語るだろうな、と思うけれど、だからといってそれでこの映画を”観た”ということになるのだろうか? あるいは人間やそれをとりまく世界について、なにがしか”わかった”ことになるのだろうか? 他の小津作品も観てみないことには何とも言えないけど、これだけを取り上げてみるかぎりでは、『東京物語』は小津が仕掛けた(評論家を真似る学生とか2ちゃんねらー的なものを釣るための)トラップではないか、という気さえしてくる。まあそんなのは勝手な邪推だろうし、もはや2ちゃんねらーが小津を顧みるとも思えないけども。




以下、ただ単純に極私的な(好き嫌い的な)感想をいうならば、この時点ですでに崩壊している「家族」という形態にこだわる登場人物たちのありようが僕としては辛くて、しかもそれが、小津が得意とする切り返しショットのスローリーな間合いで語られるものだから、いかにも古色蒼然たる形式主義的な感じを抱いてしまって、あまり好きにはなれませんでした。『東京物語』の登場人物たちには、「言いたいことがあるけどあえて言わない」という美学はあるけれど、「自分が何を考えているかすらよくわからない」というような、現代的な悩みはほぼ皆無であるように思えます。彼らはどれもこれもが、主体性をキープした「大人」である。主要人物の中でもっとも年若い香川京子がかろうじてコドモ的な希望を感じさせるものの、やはり小津は彼女に逸脱を許さなかった、と思う。この(実際にはついに完成されなかったが幻想としては生きている)近代的なフォルムとそれが生み出す「大人」像に対して、僕としては萌えるわけにはいかないし、もしかしたらそれはほとんど人生をかけて批判していくものになるかもしれないと密かに思っているくらいですが、というのも、こうした形骸化したフォルムの残影によるコミュニケーション様式がいったいどれだけの人たち(特に女たち)を苦しめてきたか、といったことを考えると笠智衆の横顔をひっぱたきたくなってくるぐらいですけど(苦笑)、まあこう書くとなんだかいかにも左翼的な言辞になってしまうんですけどね。でもべつに彼自身がわるいということでもなくどちらかというと好きな役者さんだし、すでに時代もいろいろ問題はあるにせよ大幅に変化したので、それはもうとりあえずよいのです。とりあえずは。しかしほぼ同じ時期に撮られた成瀬巳喜男の『稲妻』の衝撃と比べてしまうとなあ……。同じ小津でも、『秋刀魚の味』とかはもっと好きだった気がするんですけどね、岸田今日子のルンルンっぷりとか。


まあとにかく、記憶の中の『東京物語』のイメージはだいぶ更新されましたが、現時点では判断を保留して、またいつか『東京物語』に還ってくることにします。この映画が様々な歴史の結節点に位置する作品であるだろうということは、ほぼ間違いないように思えるし、なにより原節子という女優の存在については、やっぱりどう考えても無視するわけにはいかないでしょう。


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