「批評」とは何か?


いったい僕は何を書こうとしているのだろうか。僕はこの文章を最初夜に書いたが、翌日またざっと読み返して少し手を入れてからアップしようと思って、だから今は昼間である。いい天気だ。そして今は夜である。けっこう寒い。そのあいだには様々な時間があり、様々なことをした。そうして今年も終わろうとしている。もうすぐポナイトがはじまる。ウメッシュを飲んだので、少しばかり頭が朦朧としてきた。ラジオでは、文化系トークラジオで例の「日本語」問題について語っている。


……さて、うまく根拠のある説明を見出せないのだが、この本に書かれている佐々木敦のリズムというか運動性というものをつかまえることによって、何かが見出せるのではないか、という直感が僕の中には芽生えて、それでこういうとりとめもないことを書き出したと思うのだが、書いているうちに、べつに佐々木敦論をやりたいわけではなかったのだ、というふうに思った。なぜやりたくないかというと、どう考えても僕の手に負えるようなものではないし、そこでもしもなにかしらわかったような気になったとしたら、おそらくそれは僕がただ愚かなだけだ、ということがなんとなくわかるからだ。しかもどんどん時間だけがなくなっていくという。そしてむしろ枝葉の葉っぱのほうを押し広げたくなってしまって、幹を論理的に辿っていくようなことに対してやっぱり自分は根気と興味がないのではないかと思う。……ちなみにこの本の「映画批評」のくだりではまったくもって予想もしなかったような「愛」について熱く語られていて、ここだけ読むと、この本はほとんど愛の告白を書いた手紙のようにさえ読める。そういう部分に混乱(魅了)させられてこんなものを書き始めた、というのが正直なところかもしれない。


とにかくこの本は何度か読み返すことになるだろうな、と思うのだが、実際に本のほうはとても軽快な語り口で語られているので、どう考えてもそちらを読んで自分の頭で考えるのがよく、ではここでこうして、空弾を放っている、ということに、なんの意味があるのだろうと思いながら、でもそれでもこういうものをつい書かせてしまうこの本はなんなのだ、というところに、結局のところ考えが戻ってしまう。

 





っていうかなんで佐々木さん朝まで赤坂にいるの!?(笑)