「未知との遭遇」、予言めき


昨夜の文化系トークラジオLifeを聴きました。「未知との遭遇」ってテーマで、すっごくいろんなことを思ったんですけど(ラーメンのこととか、笑)、ひとまず放送直後の感想、と思って書いておきますね。直接の感想というよりは、インスピレーションを受けて思ったこと、って感じですけど。


全体(歴史)を把握することが不可能、って話。そこに、今の時代に生きる私たちの絶望とか、失望とか、諦観といったものの源泉があると思うんですけど、その全体性ってちょっと前まではまだ想定できるもので、フィクションの世界では「神様」だったり「巨大コンピューター」だったりって形で、全体を把握することのできる万能の存在というものを想定することができた。


でも私たちの前に現れたのは、そうした万能の存在ではなくて、情報のアーカイヴとしてのインターネットだったわけです。これは実は全然万能じゃない。インターネットはつねに様々な語られない(upされない)記憶を”取りこぼす”し、これからも取りこぼしつづけるだろう(たぶん、今の若い書き手のみなさんが時々アレ?って感じになるのは、この取りこぼすって感覚を忘れて全能感を得てしまうからではないかと)。でも巨大で、しかもいちおう万人に開かれているという点では、インターネットは本当に画期的なものとして現れたんだと、すっごく今さらですけど言えると思います。




少し話が横にそれますけど、ケータイ電話が登場して何が変わったかってことのひとつに、私たちが電話番号を暗記しなくなった、ってことがあります。これ、実は大きいと思ってて。親しい友人であれ恋人であれ、もう全然覚えてない。下手したら自宅の番号さえ、ケータイのアドレス帳を確認しないといけない有り様です。これは、ある側面からみれば、ケータイが人間の記憶能力を奪った、とも言えるんじゃないかと。


で、インターネットは、さらに人間の記憶能力を奪いつづけると思うのです。私たちはもはや、ほとんど何も覚えていない、という時代が、そう遠くないうちにやってくるんじゃないか。自分のブログや、何か記憶をストックできるようなアーカイヴ装置を参照することでしか、自分の知的リソースを確認できなくなるんじゃないか。(すでにそうなりつつありますよねー?)


とした時に、ひたすら忘れつづける人間が、それでも自分に固有の記憶として覚えているものがあるとしたら、それはなんだろうってことに興味があります。……てのがひとつ。


もういっこは、そうやってどんどん忘れていくってことは不可避だし、それはそれでいいんじゃないかと私は思っていて、むしろ積極的に忘れちゃえ、そのぶん未知の領域が増えて楽しいし、くらいに思ってて(笑)、その時にそれでも人間は「思い出す」ってことはやっぱりすると思うんですよねー。「思い出す」っていうのはつまり、「覚えている」ってこととは違ってて、一度「忘れる」ってことを経ているわけで、それってすっごく面白いと思うんですよ。その記憶はどこにいったの???っていう。その思い出された記憶ってのは、実は捏造されているってことが多分にあるかもしれないっていうか絶対あるけど、でも自分の記憶を、何かの拍子にふと思い出すってことはきっとある。じゃあその思い出すきっかけになるのはなんだろうとか、そのあいだどこに記憶がストックされてるんだろうとか、そういう記憶と人間とのコネクトみたいな部分が、この先どう変化するんだろうってことにも興味があります。


ただ、いろんなことを忘れたら、人間はかなり幸せになれるんじゃないかってことは直感としてあります。




今はまだ過渡期だと思うのです。だから、全体を断念せざるをえない状況の中で、にもかかわらず、未知なるものが充ちている世界にただ存在しているということの恐怖に耐えられないから、人はなにかしらの超越的なもの(スピリチュアルとか)を求めたり、箱庭的に「世界はこうなってるよ」とミニチュアライズして見せてくれるものを求めてしまうんじゃないか。そしてそこに向かって、必死に言葉を投げ込むんじゃないか。だから必死に、手元にあるごく少ない言葉のナイフでもって、世界というケーキを切り取ろうと躍起になってしまうんじゃないか。武装して、ゲームに参加するんじゃないか。


でもそういうのも、そろそろ終わりかな、という気がしています。まあなんの根拠もないですけど。そして若い人が、世界と何らかの関係を結ぶことに必死になる、というのは今も昔もこれからもきっと変わらないと思うけど。それといっぽうで、とくに理系なんかは、体系的に知識がストックされていくということがたぶんそれなりに必要だと思うので(私はよく知らないけど)、いや理系だけじゃなくて、文系も含めて(研究と教育という)アカデミズムというものの役割が、再確認されるってことは結構必要なんじゃないかって思うけど、とにかくいろんなことは変わっていくし、人間の性質も、いい悪いではなくて変わっていくでしょう(そして根っこの部分では全然変わらないでしょう)。その変化の最たるものは、私たちが「記憶を忘れ、そして思い出す」存在になるということです。


その時、私たちは、「所有」という概念を喪失するかもしれません。少なくとも変化はする(という話は、ポケットフィルムフェスティバルでも出ていましたね)。ではその時、私たちは、それでも固有の名前と著作権をもった作家であり、論客でありつづけるのか、といえば、たぶんそれは最後まで、やはり作家であり、論客であったりするのかもしれません。名前を失うということはやっぱり怖いことだから、名前だけはキープして、そして脈々と2000年程度は続いてきた人類の歴史の仲間入りをするのかもしれません。でも、ずいぶん所有の形態は変わるだろうし、少なくとも、そのような変化を進んで受け入れるような人間が、これから現れてくるということは、間違いないと思います。退化でもあり、進化でもあるような、つまりは変化。


たぶん、かつてコミューンの思想家たちが思い描いたのとはまったく別の理由と経緯によって、つまりインターネットというテクノロジーによって、私たちは私たちの存在の有りようを変える。所有権のない世界を夢見るのではなくて、徐々に、部屋が狭いなどの物理的な、あるいは経済的な理由によって所有を断念せざるをえなくなり、そうしてやがて、忘れそして思い出す存在になっていく。そしていっぽうでは、そのような記憶のアーカイヴを支えるテクノロジーが、実はごく脆い基盤でしかないってことも、私たちはどこかで思い知るでしょう。そこで何が大事になるだろうか、ってことにむけて、私は準備しておきたい。




あー、また妹っぽくないとか言われそう、、、いや、予言する妹、とかいてもいいかなと思って。