コミュニティと作家の孤独について


む、これはほんとは、ちゃんと書かなきゃいけないことかもですが、走り書きで失礼すると、兄がもしか誤解を受けているとしたら、まるで集団好き、コミュニティ好き、みたいに映っているのかもしれなくて、でも兄の名誉のために言いますが、この日本で、兄ほどのコミュニティ嫌いはそうそういないと思います。それは、10代の頃に学校がイヤになって雀荘にいりびたるようになったものの、そこもまたコミュニティと化してしまう、ということに違和感を抱くような経験からすでに始まっていて、というか、それ以前に、小学校を出るやいなや田舎を飛び出して家族からも(私からも)離れて東京に来て、ボロアパートで一人暮らしをしていた(12才で、ですよ)、という時点で、狭いコミュニティ内での濃い人間関係というものが、とても苦手ということは明らかではないでしょうか。私はまだ小さかったので、そのとき兄が何を考えていたのか、知るよしもありません。おそらく兄自身にもわかっていなかったでしょう。ほとんど生理的な反応として、そうやって逃げたのだと思います。


しかし、今や兄はコミュニティを恐れてはいなくて、どこにいってもそれはある、し、人が時に有限の時間において期間限定でつるむ、ということはそれはいたしかたないことだと思っていて、とはいえそういう場所でいかに「個人」を保つかという術を、兄は20代の歳月を通して、それなりに磨いてきたはずです。しかしこれは本当に理解されなかったし、いわれのない誹謗中傷を(内からも外からも)受けたりしました。今でもあります。でもそれももう、仕方のないことだと思っているのです。


だからいま仮に、兄が何か集団やコミュニティにコミットしているように見えたとしても、そこに所属してないのは明らかだし、アイデンティティをどっぷりつからせるというようなことも決してない、ということは、私の口から強調しておきます。つねに、半歩外にいて、そういう半歩外、の感覚を、いろんなところに乗っけているだけなのです。刺激や影響を与え合うような「個人」と「個人」の繋がりを、どのように見出すかということでしかない。それが面白いと思っている。


そして作家はつねに、最終的にはひとりであるものだと、兄は考えています。だから、作家の集団化やグループ分けといったものに、兄は基本的に興味がありません。そうしたものがあるとしたら、ただそれは、暫定的に、戦略的に、粛々と進行されるものにすぎなくて、やはりその中で最終的に「個人」であるような作家でないことには、兄は付き合う気もないし、まったく興味をそそられないでしょう。仮に仲良しグループに見えるようなものがあったとしても、だからこそ兄はかえって、そこでことさら「個人」として振る舞うことになる。そうした時、兄は、フリー編集者という、よくわからないポジションをおおいに利用していると思います。正体不明の存在であることを保たないと、またたくまに集団の論理に飲まれてしまうということを、イヤというほど味わってきたからです。それは今の家(一軒家をシェアしての共同生活)に暮らしていてさえもそうだといえます。ちょっとオブセッション気味とも私には思えるくらい、兄はコミュニティというものを本来は嫌悪している。にも関わらず、兄は他人を求めてしまう、というその矛盾が、時には誤解を招くのでしょう。コミュニティは嫌いなのに、人のことはとても好きなのです。


兄はおそらく死ぬまで、作家が(人が)孤独であることを擁護しつづけるはずです。裏を返せば、そこにしか惹かれてないのです。