14歳の国りたーんず


まずはこのブログを読んでほしい。
http://ameblo.jp/kamisatoy/day-20090424.html


神里氏のこの批評に導かれた僕は、杉原邦生演出の『14歳の国』を、兵士たちが死に向かう物語として観ていた。だから3回目の公演でついに拍手が起きなかった、という伝説を彼らが打ち立てた時点で、かくなるうえは見事に玉砕してほしい、少なくとも俺と神里氏は心の底で拍手するだろう、と思っていたのだった。今日の公演前、僕はそのことを考えるだけで胸がいっぱいになって、奇妙な興奮を覚えてそわそわしていた。ロビーにいた面々の中でその興奮の意味がわかったのは、おそらく神里氏ただ一人であったと思う。




しかし本日、杉原組の『14歳の国』は完成してしまった。杉原なりのあの戯曲の解釈というものが、そこには結実してしまっていた。もやもやとした不完全なものの中から、新しい小さな世界が生まれたのだった。


そして彼ら役者陣はといえば、確たる世界観が与えられたことによって、死ぬことの中に、とうとう生きることを見つけてしまったのだ。世界が確定したことによって、彼らの、生きたい、という欲望が、あの空間に現前してしまっていた。彼らは兵士である以前に役者であり、もっといえば人間だったのだ。彼らはその、当たり前のことを思い出した。夢は醒めてしまったのだ。


それはいささか、寂しい事態ではある。もうあの、死に向かう兵士たちの神々しい姿を拝むことができないのだと思うと。作品として完成した以上、『14歳の国』はもう安心だし、普通にお客さんを楽しませることができるだろうし、さすがにこれ以上観る必要はないだろうな、と思った。見終わった直後は。




だが待て。それは本当だろうか?


この身体の軽さはなんだ?


いったいどうしたというのだ?


さっきも書いたように『14歳の国』はいまや完全に杉原邦生のものであり、スカスカしたあの学校の教室の空間は、杉原なりにあの戯曲を解釈した結果として提示されている、とも言える。たしかにわかりやすい、腑に落ちやすい作品になった、とも言える。けれども、「僕はこう考えました」というのでない、「単にこうしてみました」的な投げっぱなし感が杉原版『14歳の国』にはあって、そのせいか、あの教室の空間があれから数時間たった今も僕のアタマの中に広がっているのを感じる。ごろりと投げ出された、不気味なパワーを感じる。


こ、これはもしかして、、、そう、


『14歳の国』は終わっていなかったのだ!




ふつうの観劇方法からしたら反則かもしれないが、別に演劇観るのに正攻法もクソもないだろうからまあ好きに言わせてもらうと、死に向かっていた彼らの姿、それもほぼ犬死にがまず土台としてあり(1回目)、その上に神里氏によって意味を与えられた兵士たちの神々しい死があり(2回目)、それがしかし理解されないということでもはややるべきことをやるだけという諦念があり(3回目)、さらにそこから今度は反転して、どういうわけか生きることを肯定する彼らの姿が生まれた(4回目)。そしてそのあいだの時間にあったはずの、彼らの迷いや紆余曲折といったもののすべてが、あの空間に複層的にオーヴァーラップし始めている。これは、、、ヤバい。


もうあの劇についての評価がどうだとか、そういうことはどうでもよくなっている。そしてこれは完全に、僕個人の、極私的な愉しみ方にすぎないだろう。それでかまわない。もう他のお客が楽しもうが凍りつこうが僕の関知するところではないのだ。とにかく俺に見せてくれと言いたい。次の5回目で客を怒らせてしまって、最後6回目は誰も来なくて観客が俺一人とかになったりしたら、間違いなく僕はそこで気が狂って死ぬだろう。それは無理としても、とにかくあの空間に重なっていくものが観たい。まだ観たい、と思っている。これは驚きだ。


あと2回(5/2、5/4)、あの空間に上塗りされるものがあるのだ。そのことを考えると恐ろしい。それを観ないという選択肢がありうるだろうか? 演劇とは、生々しいもののリプレイである。そのことがいま『14歳の国』を通じてはっきりと目の前に突きつけられている。もう、なんなんだこれは!!! だんだん腹が立ってきた。でも不愉快とかではない。むしろ気持ちいい。さっきも書いたようにとても身体は軽い。もうなんだか、演劇を観るとか、作品を作る、といったことの概念そのものを覆されてしまった気がする。そしてたぶん、杉原邦生自身はなんも狙ったり考えたりしたわけじゃなくて、ただ本当に戯曲を彼なりに読んで、かみ砕いて、そっから祭りがやりたいと思って、そのためにどうしようかと試行錯誤した結果がこれなのだろう。


これは異常な事態だ。まさか『14歳の国』がこんなことになるなんて……。夢に見なければいい、マジで夢にだけは出て来てほしくない。ここで出し尽くしてしまわなければ。すべての残留物を排除しなければ。だから今ブログにえんえん書いている。でも、それは無理だろう。あの気持ちの悪い人たち。スカスカの空間。それらがきっと夢の世界でも広がってしまうに違いない。そして……僕はわかってる。心の底では、そうなるのを待ち望んでいるのだ。


なんという妄念の温床! やばい。すげー観たい。これは冗談でもなんでもない。面白いとかつまらないとかでなく、観たい、という、その直撃。


もう、こうなったらいけるとこまでいってくれ!