笑い、について(ほろ酔い)


仲俣さんのブログ忌野清志郎の告別式に行ったと書いてあってびっくりした。しかも3時間待ちだったのに5時間待ちになって退屈しなかったと書いてあってもっとびっくりした。人をここまで駆り立てるものってなんだろう。ところで気になったのは、葬儀の時に笑顔が観られたという話で、笑いのある葬式って素敵かもしれないなと思う。と、いうのは、どうにも日本人の笑いの範囲というのは相当狭いんじゃないかと思っていて、別に今のお笑いブームを否定するつもりでこんなこと書いてるわけじゃないのだけども、本来、「笑い」というものの持っている範囲というのは実はもっとすごく広いんじゃないかと思う。それは、たとえばエスキモーが様々な「白」を判別できるのに対して日本人が「白」というととても狭い白になってしまうということにも近いのかもしれない。


谷川俊太郎が、何かの詩集に、たぶん『女に』の中じゃなかったかと記憶しているのだけど(定かではない)、セックスの最中に笑えるのは素敵だと書いていて、それはまったくその通りだと思う。しかめっつらしくセックスをするのが定番だとしたらそれは悲しいことで、そのことを僕は篠田千明作・演の『アントン、猫、クリ』を観ているさなかに思い出していた。あの二人が舞台で見せているものは(誤解を恐れずにいえば)セックスのそれにきわめて近いと思って、だからエクスタシーに到達できるかどうかというところがたぶん観る人にとっての焦点になってくる。(僕は3回目の公演では完全にイッてしまったし、6回目は相当気持ちよくて感動したが、そこに到達しない回、すなわちイケなかった回があったことは事実だ。)けれどもこの話で言いたいことは、あれは、笑える芝居だ、ということである。といっても、その「笑い」はおそらく、現代の日本人の笑いのレパートリーの中には、ない、とまではいわないにしてもほとんど皆無に近い状況なのだろう、ということは思ったりした。


と、ここまで書いて(しかも少しばかり酔っぱらいながら書いて)ほとんどどうでもいい気持ちになりつつある。と、いうのは、笑いというものはきわめて生理的なことなので、それを今更どうこうということは、とても難しいだろうと予期できてしまうからだ。おっと、おやおや、ペシミスティックな話になってきたぞ。しかし、例えば、通常の生活において、誰かと誰かとのやりとりの中で、無理な、作り笑いのような、あるいはなし崩し的に誘発される苦笑いのような、あるいは周囲の空気に合わせて笑っておかなければならないというような、そういう形での妥協的な笑い、の他に、もっと心からの笑いというものはあるのだ、ということは、はっきりしているのだし、少なくとも俺はそこにしか与しない、というふうに思っているので、そう思うと自然と無理笑いな人は遠ざかるからまあ僕の生活的にはいい感じの笑いが溢れていてまったく問題ないんですけどね。


そう思うのは多分に今読んでいる小説のせいかもしれなくて、これの心理描写がマジですごい、古典でしかも翻訳なのに、、、とか思うんですけど、まあそんなこと言うヒマあったら文学フリマの話でも書けよ、って感じなんですけど、その総括は先に譲るとしても、まずもって、ブースの貴重な一角を譲ってくださった「アラザル」のみなさま、本当にほんとうにありがとうございました。それから即席で、「りたーんず」を売ることに協力してくだった「界遊」のみなさまがたもほんとうにありがとうございます。それからもちろん、今日買ってくださったみなさま、ありがとうございました。より一層精進いたします。


というまったく起承転結も結論もない話なんですが、今日の文フリでも思ったんですけど、意外にブログって、いろんな人が読んでくださっているので、もっとちゃんとしたこと書かなきゃなーと思うんですけど、いや、嘘で、ごめんなさい、あんまちゃんとしたこと書こう、みたいな気持ちははっきりいって今全然なくて、それはあの「14歳の国民事件」があったせいでもあったりするんですけど、まあこんな感じなんで、そもそもこのブログはカルハズミナコトバなんで、そーゆーものだねと思ってその都度軽蔑したり興奮してくださったりすると私としては本望でございます。