つらつらと


こういうことを書くと、またいたずらに人を心配させるかもしれないので、心配ないですよ精神的肉体的には、ということを前提の上で書くと、最近いろいろやりながら(と言いつつここ最近では珍しいくらいにやってることをあえて極小に絞ってるわけですが)熟々(つらつら)と考えるに……いや、考えてるというのはたぶん誤解を招くので、僕はいつも考えるといっても考えてはいないのだが、まあそれはさておくとして、最近思うことのひとつは、善悪というものの彼岸を見たいという気持ちがあって、でもそれを突き詰めてった時に一巡してやっぱり悪は存在するんじゃないかってことを思うし、「敵がいない」みたいな言明ももはやただの甘えではないかという気が、これは誰に対してとかじゃなくて自分に対してだけども、思う。そしてそこは、悪の所在がわからないだの敵が見えないだのと言ってないで、さっさとぶちのめせよ、それでいいじゃんって気持ちがある。ただその時に、敵を間違ってしまうという可能性は当然あるわけだから、そこで知性が必要とされるんじゃないか、とか。まあ、知性って言葉も耐用起源が過ぎてるのかもしれないけど。


それともういっこは、どうも今僕は「自分」に関心が向かっているようで、とはいえ、自分の内面の心情みたいなものにはまったく興味がなく、むしろこの「僕」という容れ物にどういったことを施せばどういったことが引き出されてくるのだろう、ということに対してかなり冷徹というかほとんどサディスティックに近い欲求があって、これはあんまり進みすぎるとちょっと危ないような気もしないでもない。つまり「あれ、俺今ちょっと感動してる? ほお、このへんを刺激すれば……」みたいな、第二の眼による冷徹な発見みたいなのがあって、それはやや気持ちの悪いことだ。


しかし、そういう冷徹さの一切ない、ペタッとしたヒューマニズムみたいなのにはちょっと今耐えられないなという気もしてる。友情も愛情もそんなもんは要らん!みたいな。いや要らんことは全然ないんだけど、欲しいんですけど、でもなんかペタッとしたものは違うという感覚がすごくあって、それで一回、そこから離れて冷徹さみたいなところにいって、いろんな有象無象のどうでもいい感情から身を引きはがさないと、なんか全然真実が見えないっていうか、いや、もちろん「真実なんかない」というのもそれはその通りなんだろうけど、でもあるよね? 少なくとももっと見えるよね? という気はしなくもない。


つまり、いろいろ見尽くした上で「やっぱり何もなかった……」という時の「無い」と、最初から「は〜、どうせ何やったって真実とかないし別に正しいこととかもないし、だから何にもないんだよねからっぽなんだよね」という時の「無い」は、同じ無であってもたぶん全然違うんだろうな、ということで、そこはかなり痛感するところ。



なんでこんなふうに考えてるかっていうと、自分の人生はここにきてある種の到達点を見たわけです。もちろん外から見たら、まだ全然何もしてないじゃんってことになると思うし、僕自身もその意味においてはまったく同感ですけど、自分のある尺度においては、完全に到達してしまっていて、これはまったく驚くべきことですけどもほんとにそうで、となるともうほんとに死んでもいい、ってことになってしまうから、やはり自分なりにモチベーションを作らないといけなくて、そして幸いなことにそれはあるので、それは奇跡的にとも言えるし、ある種の飽和点に到達したから次が見えたってことかもしれないけど、そして外面的に見れば、きっとこれからやることはこれまでの延長には間違いないし、それどころか相も変わらず同じことをやり続けてるじゃん、っていうふうにしか見えない可能性大ですけど、自分の中ではもうこれはかなり、という、、、まあ別に書かなくてもよかったんですけどなんかこれ言っとかないとブログにあれこれ書く気にならなくて、そしてこのブログはブログでそれなりの役目はあるので、まあここを回してくっていうか機能させるために書いてみたわけですけど。


でもあのアゴラでりのちゃんに占ってもらった時に、これは予見されていたことだった。なんかさっきは友情がどうとか書いたけど、むしろ僕の中では今ほんとに友達って素敵だなというか、友達素晴らしい、と思っていて、まあすみません、今は思うところあってあえてあんまり会わないようにしてるんですけど、なんか本気で恩返しできないかなって思ってるくらいなのです。……まあ、大体これくらい書けば気が済みました。ウフフ。




あー、それとですね、今日はおならがくさいんですよ。突然何を言い出すのかって言われそうですけど、ほんとにこんなくさいことは滅多にないんです。しかもよく出る。原因はおそらく、お昼に食べたペペロンチーノ(ひさびさに作った)にジャガイモをたっぷり入れて、かつニンニクをめっちゃ絡ませまくったせいだと思うんですけど、でもこれが自分の作ったものの中では過去最高にうまかったわけです。だからこのおならもその代償と思えばどうってことないんですけど、それで思い出したのはりたーんずの時にロビーに置いてあったノートに寺田さんが自分のおならが今日はくさいんです、って書いてて、それ読んで結構衝撃を受けたのです。すごい、自分のおならの話を書くんだ、恥ずかしくないのか、いや恥ずかしいだろう、でもどうして書くのか、とかとか。それでなんでここで書いてみたかっていうと、まじめくさった話だったからバランスをとろう、みたいな計算もないではなかったんですけど、やっぱりふつう、おならの話はあんまりブログには書きませんよね。それははっきりいって、下品だから、ということなんでしょうけど、ほんとうに下品だと思ってるからそう書かないのか、なのですよ問題は。つまり私たちは、ある種の恥をさらせない(と思い込んでいる)世の中に生きていて、ネットもそのように使っているんだけども、それがかつてのような、常識とか、品性のあるなしとか、そういうことで動いているかというと、そうではない。もっとかなり惰性で、みずからのナルシシズムみたいなものの檻に閉じこもって周囲の様子を窺っているのであって、そういうのははっきりいって僕はあんまりかっこよくないと思ってるんですよね。