ハイバイ新作


ゆうべアゴラでハイバイの『リサイクルショップ「KOBITO」』観ました。正直、面白かったです。ただ、今考えてることと余りにもドンピシャリ過ぎて、シンクロしまくってて、そのハイバイ的な歴史の取り扱い方や他者への向かい方に対してすっごい共感を覚えながらも、でもそこから身を引き剥がさなくちゃいけないんじゃないの自分は?みたいな奇妙な気持ちもあって、心中複雑ではありました。


それで寝る前に感想を書こうと思ったんですけど、少し酔っていたこともあってうまく書けなくて、諦めて寝ようとしたら寝床で劇の一部始終というか、あの「ざわざわ」がモワリと襲いかかってきて思いっきり泣かされた。時間差カタルシス



問題はあの「ざわざわ」だと思う。またの名を「おばちゃん的カオス空間」。あれが1時間40分続いたら面白いなー、と最初に思ったんですけど、実際ほんとにそれをやってくれたようなもので。と同時に、ちゃんとストーリーテリングな物語もあって、そこが両立してるってことがなんというか、嬉しかった。


自分とは世代も性別もその他いろんな点で異なる他者に対して、たぶん「共感不可能性」みたいなのを立脚点にして、つまり「不可能」を軸にする作劇・演出のやり方もあると思うんだけど、そしてどちらかというと僕自身はそっちのほうがリアリティがあるはずなんだけど、ハイバイというか岩井秀人さんは(いい意味で)愚直に他者に立ち向かっていってる気がする。最近『ドンキホーテ』を読み返したりしたんだけど、なんかあの愚直さにもちょっと似たような感じで、恥部を抱えたままというか。愚直であるってことは傷つくし、その傷つきをおそらくもっともよく知っているであろう岩井さんは、でもやっぱ愚直にやってしまうという、そこがいいなあ、と思うし、信頼できてしまう。その信頼感っていうのは「ウェルメイドなものをちゃんと見せて期待に応えてくれるだろう」みたいな安心感とはまったく別のもので。今回もどんな劇になるかわからなかったし、実際まったく予期してないものだった。そうきたか、という驚きは消えない。それはけっして、突き刺されるような驚きではないけども。


愚直といっても劇はものすごく緻密に作られていて、例えばあの若葉さん(娘役)の立ち位置とか重要なんだけど、ああいった時空間を超えて存在するみたいなのは演劇でしかできないと思います。映画でやろうとしたらホラーになってしまうし、小説だと三人称でもできないから語り手を特殊な存在にしないと不可能。どちらの場合も超越した存在(幽霊)とかを持ち出さないことにはああいうアクロバティックな偏在性みたいなのは具現化できないから、何かそれが過剰な意味を帯びてしまうんだけど、実は演劇だと舞台という具体的な現存する装置があるために、ああいうことがサラッとできてしまう。そういった演劇ならではの技術を使いながらも、でも「こんなことができてしまいました」というテクニックを見せるためにやっているのでは全然なくて、すべてが「ざわざわ」のために奉仕されているというのがすごい。


うーむ、しかしこの奉仕感はですね、まだよくわからないけど、お客さんを楽しませるってことも気持ちとしては含まれてると思いつつ、そうじゃないんだよね、たぶん。なんか岩井さんの中で追い求めてるものがあって、その現在の最前線が『リサイクルショップ「KOBITO」』だと思う。つまりそれは演劇への奉仕でもあるし、もっといえば演劇以上のものへの奉仕でもあるんじゃないかなと。だからまだこの先もある。全然掘り返されてない荒れ地がまだたくさんあるから世の中には。そういう意味では演劇って(映画や小説もそうかもしれないが)鋤や鍬のようなものかもしれないって思いました。


うーん、それにしてもまだすっごい残ってるなあ。昨日の舞台が。いやー。染みてるわ。




そんでアゴラを出てノムさんとビール片手に歩きながら帰りつつ、あれこれ話しながら最終的には今やってることの相談に乗ってもらったわけですが、いやお忙しいところ長時間お付き合いいただきありがとうございました。そして甲州街道に至って、ついにめっちゃ重要なキータームをいただきました。なんかこう、モヤモヤしてたところに光がパーッと差した気がして、それで興奮して家に帰ってレンチンして焼きそば(刀削麺)食べようとしたら、レンジから出した瞬間に中身を全部床にぶちまけてしまった。……ひでぶですよ。


でも不思議と怒りみたいなものには繋がらなくて。やれやれ、って感じで、かわりにパスタを茹でて食べました。そして感想を書こうとして、寝た。(このエントリーの↑最初に戻る)