ハンガリーの鋼鉄人


ぼくの友人たちは、基本的に礼儀正しい人ばかりだが、中には、夜中の2時すぎに電話をかけてくる非常識な輩もいる。だがそれは、ごくわずかな例外だ。ましてや、この地球に時差という基本概念のあることを忘れて、「ブダペストのナントカに電話しようとしたら、ケータイで名前が見えたから」という理由で日本時間の朝の6時半に電話をかけてくるような輩も、滅多にはいないのである。まあ、偶然起きてたけど。


ところで、おそらく敗戦直後の坂口安吾は、近代人の夢を見ていた。けれどもそれは、啓蒙され進歩する近代人ではなくて、どうしようもない弱さを宿命として受け入れる、運命論者的な近代人であったと思う。だから彼は、堕落の道筋や、それを妨げるカラクリや美意識のナンセンスや、喜劇でも悲劇でもないファルス(道化、乱痴気騒ぎ)や、帰るべき「ふるさと」について考察をめぐらせる。そしてつねに比重を、システムや様式や建造物ではなくて人間のほうに置いた。その人間主義は、おのおのが最終的には「孤独」であるという、その一点に支えられていたのだと思う。


けれども、例外を匂わせる一文もある。

「帰るということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しさもないのである。「帰る」以上、女房も子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることができないのだ。帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる。


 この悔いや悲しさから逃れるためには、要するに、帰らなければいいのである。そうして、いつも、前進すればいい。ナポレオンは常に前進し、ロシヤまで、退却したことがなかった。ヒットラーは、一度も退却したことがないけれども、彼らほどの大天才でも、家を逃げることができないはずだ。そうして、家がある以上は、必ず帰らなければならぬ。そうして、帰る以上は、やっぱり僕と同じような不思議な悔いと悲しさから逃げることができないはずだ、と僕は考えているのである。だが、あの大天才たちは、僕とは別の鋼鉄だろうか。いや、別の鋼鉄だからなおさら……と、僕は考えているのだ。そうして、孤独の部屋で蒼ざめた鋼鉄人の物思いについて考える。


                        坂口安吾「日本文化私観」


ハンガリーの彼女が、「別の鋼鉄」ではないと言い切れるだろうか? 実際、あえて家を喪失するという作戦は、安吾の想定外であったはずだ。安吾も友人の家を転々としたらしいけども、でもいちおう、帰るべき自分だけの部屋があったし、そこで「孤独」を醸成することができた。では、「別の鋼鉄」は果たして「孤独」を感じるのだろうか? 家ではなく、むしろストリートに「孤独」があるのだとしたら、それは近代人的な「孤独」とは一線を画しているような気もしないではない。いやそもそも、ぼくたち現代人は「孤独」でありうるのかな? 「寂しさ」はあったりする。だけれども、今や、例えばこの呟きが一瞬にしてウェブ上で人に見られる、、、なんて時に、この感じを「孤独」という言葉で言い表せるかっていうとかなり微妙だ。


それにたぶん、「孤独」をかこつ身振りってのも、ある意味「かわいい」かもしれないけど、もはや全然「かっこよく」はない。これはかなり決定的なことで、文章を書くというスタイルそのものに改変を迫っている。少なくとも、ある種のナルシシズムによって「文学」を僭称することは、もはや不可能だ。もっと言えば、そうした作家の「スタイル」と「文学」とは、どんどん切り離されている。それはたぶん歓迎すべきことだろう。