反世界の旅


ある部分だけを取り上げれば、あたかも「私/自己/個人」VS「他者/集団/社会/システム/世界」というような安直でナイーヴな二分法にもとられかねないのだが、倉橋由美子の第一作品集『パルタイ』(1960)は、実は(というか当然)そうした居心地の良い二分法的な自我の確立とはまったく全然違うところからこの世界を撃つ。彼女はその「明晰」さでもって、「密告者」という特殊な立ち位置から弾丸を放つのだ。


世界から疎外された自分、というポジションまでたどり着くのは比較的簡単なことだが、彼女はひとりそこから隘路を抜けて「反世界」を一気に押し広げていく。もの凄い力で。もちろんそれは世界に迎合するということではなく、むしろ世界によって裏切られ続け、また世界を裏切り続けるという過酷な(何らの庇護のない)旅である。それを可能にしているのは、彼女の知性ではなく、彼女に秘められた野蛮さであるのだと思う。


わたしはきわめて明晰であったとおもう。しかしこの明晰さが事物の分析や因果関係の樹立にむかおうとすることを、わたしは禁じた。あたしの行動からいっさいの理由づけをはぎとり、それがだらだらとひきずっているいっさいの所与からの意味づけを切断すべきだ。わたしは《経歴書》を書くべきではなかったし、それは速かにとりもどさなければならないだろう。それはわたしの第一の《オント》であったが、わたしはそれをかき消そうとしてさらにオントを重ねるべきではない。パルタイはどこかに実在し、奇妙に複雑なメカニズムで動いており、たえずのびちぢみしてはわたしのような個人をのみこみまた吐きだしているにちがいない。しかしその存在は非常に抽象的なものだ。そしてそれがさまざまな《掟》と《秘儀》の総体からなっていることは、わたしにはある種の宗教団体とおなじにみえるほどだ。その目的は《救済》であり、救済とは信じることだ。ところがわたしはなにも信じなかった。わたしは《革命の必然性》を信じなかったし、わたしの活動の客観的意義を信じなかった。わたしは単純に、パルタイを選ぶことを決意したのであり、それは《信仰》なしになされたようにおもう。
 おそらく、これからわたしが選ぶことについてもこの原則は堅持されるだろう。

 「パルタイ

 午後、空は曇って鉛色の光がわたしの部屋をいっそう重たくした。わたしのからだの底に、ニコチンのような殺意のやにが沈殿しはじめた。ここでは他人たちの生活を、その足の裏や暗い開口部のようなところからのぞかなければならないとすれば、この殺意は猛毒な汗となってたえまなくにじみでずにはいないだろう。そして他人たちもまた、わたしにむかって殺意を分泌し、アメーバ状のことばをぺたぺた投げつけてむくいるだろう。わたしはかれらを対象化することによって決定的に復讐しなければならない。このグロテスクな《貝》のなかに、遠近法による座標をうちたて、堅固な枠組をつくるべきだとおもう。そのためにわたしは書くべきである。またある種の硬い鋭利な思想を、武器として選ばなければならない……それからわたしは異臭をのがれようとして蒲団にもぐりこんだ。しかしわたしの体臭はすでに他人のそれにとってかわられており、これはわたしを不安にした。

 「貝のなか」

 わたしは腹ばいになってロウソクのあかりをたよりに書いた。そのとき、わたしはほぼ一人であり、べたべたした他人たちの肉は、わたしの築いた堅牢な世界の外におしだされていたといってよい。しかしこの孤立はつねに苦渋にみちたたたかいの戦果だった。もしもわたしが憎悪の砦をとりはらったとしたら、他人はそのまなざしやことば、ときには粘膜までつかって、どっとわたしのなかになだれこんでくるだろう。

 「貝のなか」

 蛇は信じられない大きさにまで口をあけた。そのなかへ、Kの頭がゆっくりと没していった。Kが挿入したのか、蛇がのんだのか。人人は事態を充分にみきわめようとして、一歩ずつ輪をちぢめた。
 Kの口から蛇がずるずるとたぐりだされ、同時にKのからだは頭から次第に蛇のなかに没していくのだった。このいれかわりは、なにかを裏返しにしていくようなグロテスクさで人人の眼にうつった。

 「蛇」

岬の背に立ってぼくは世界をみおろす。細長い異色の断片を敷きつめられたような地上の街は、その遠近法にしたがって風にめくりあげられ、ついにはけばだつ獣の皮のようにみえる。いまもあなたがたの掟はその街からいく筋もの煙となってたちのぼり、まっかな雲に吸われてそこに大篆に似たふしぎな象形文字をえがく。それはついにぼくの理解できないものだった。いくさには負けたが、あなたがたはその掟にしたがって生きていく。だがぼくの世界は崩壊してしまった。ぼくの心のへりがめくれあがるように、やがて空のへりもひきあげられる。そして空は松毬状に剥がれ、ぱらぱらとくずれおちてくる。ぼくはいまぼくがどこに存在するかを知らない。ぼくのまわりを包んでいるのはなにかが灼けるような無の匂い、これはあなたがたの顔をしかめさせるものにちがいない。ぼくは無を分泌してあなたがたの世界に円筒形の穴をうがち、世界の裏、無の、紅色の反世界をみていた。世界はいたるところでねじれ、裏返しになり、みえない穴だらけになっている。世界は血をたたえた瞳のような穴でいっぱいだった。その穴はあなたがたの皮膚の裏につづいているのかもしれない。いまあなたがたは裏側の世界を信じるだろう。

 「密告」