軽躁のターン


菊地成孔スタジオボイス最終号の湯山玲子との時事放談で、

山下〜タモリ筒井康隆のラインっていうのは全員ずっと軽躁状態だから。不景気のまっただ中に軽躁で、鬱病というより統合不全的なありかた。あれは凄い。あるときからユースは軽鬱になって、基盤が鬱でクールっていうのが区別つかなくなった結果、とうとうニアイコールを超えてイコールになってしまった。鬱=クールっていうのは、ライフ・スタイルの基盤にまでなった。SVのマーケットのセンター。しかし、そろそろ軽躁のターンに入って来たので、キャンプへと。

と発言していて、軽鬱→軽躁へのターンの転換は歓迎だと思った。というのも、軽鬱よりも軽躁のほうが、知的ストックも資材も言葉も流動的になるだろうから、ま、楽しかろう、と安直にも思ったのだった。でも、実際にここ1〜2ヶ月くらいで明らかに世の中は軽躁状態に移行していて、ちょっとそれはどうなのだ? とぼくとしてはやや引いた気分にもなりはじめている。なるほど世の中がそちらに流れるのなら、ちょっと違うあたりでバランスとりたいなー、というような。まあ、全然流動的になるのはいいと思ってるんだけども、今まであんなに固かったのになんなんだ、と単に憮然としているだけかもしれない。


こないだ某喫茶店で隣のテーブルに凄い(ほとんど歴史的な)人物がいて、ああいうカッコイイ大人というか爺さんになりたいなと思った。それは軽躁だけでは絶対なれないし、軽躁と軽鬱を繰り返しているだけでもなれないだろう。クール、というのはつまり鬱でもなければ躁でもない。もっと不動の重心がそこにはある気がする。それは別に、重くなれ、という話では全然ないが(そう勘違いされやすいのだが)、要するに「自由とは何か」という問題にも似て、たとえ迅速に動き回る船であっても、それがある程度の規模をもったスケールのものであるならば、やはり碇は必要だろう、という当たり前の話にすぎない。