スキゾフレニー


結局ズルズルと日数ばかり過ぎていくのだけど、この状況にブレークスルーを期すべくiPhoneを買った。別にtwitterやりたくて買ったわけじゃないんだからね!(いやマジで。)だけれども風邪で寝込んでいることもあって、まだ最低限のことしかできず。ペニノ、ゴリラ、観に行けるだろうか?


iPhone、これはもうケータイではないね。Macbookの子機のような感じ、今のところ。外にアクティブに出歩くようになればさらに感覚も変わってくるはず。いくつかのアプリケーションには空間や時間に対する革新的な可能性も感じる。セカイカメラとか。googleの音声検索とか。同期とか。




同期……。こないだのウェブ学会見てても思ったけど、人間の中にはどうあっても分裂する性質がある。古い言葉でいえばスキゾフレニックなその性質は、これまでは「統合失調症」という言葉の響きがもたらすように、否定的な意味合いで捉えられることが多かった。(もちろん浅田彰の『逃走論』はあったわけだけど。)ところがたぶん、いまオシャレでクールな(という表現もアレですが)生き方は、そうした「分裂する私」というものを無理くりひとつの器に収めきろうとするのではなくて、あくまで分裂したままにそれが破綻しないよう、「私のパーツの痕跡」を様々なところに残し、時にはうまく「同期」して、それで存在(アイデンティティ)を保つというやり方じゃないかな。全体性としての存在を保つというより、全体としてなんとなくの存在性を保つというか。


そのあたりにはもしかしたら世代的な乖離もあるかもしれなくて、twitterを眺めていても感じるのは、もちろん、年齢が上になったことで社会的に安定してくる、というのもあるにしても、比較的若い人たちのほうがいかにも分裂している感じを受ける。わりと歳をとっている人はリアルな声とtwitterのつぶやきにそんなに違いを感じないのに、若い人たちはなんだかちょっと実際に会った時のその人とズレていて、意外な一面を見せたりする。(いま想定している年上の人ってのは40代以上の人たちだけど、当然個人差もあるし、グラデーションもあるわけです。そう簡単に世代論とかできないので)


単に年齢の問題かもしれないけど、若い人がウェブがデフォルトになって育ってきたとしたら、自分の分身をいたるところに保持するのは仕方ないことだろうし、もっといえば働き方とかにもつながってきてるのかもしれない。あ、このへんの話は、チェルフィッチュや快快たちとからめて、『エクス・ポ』の中で語られている座談会もあるので、年末に刊行される予定の『エクス・ポ』第二期創刊号をお楽しみに。そして今週金曜のゴリラは、快快にチェルの岡田さんが演出するのだよね…。