東Qに乗って横浜へ行く。負荷と俳優、文体の話。


最近よく、「おすすめの演劇は?」と訊かれたりもするので、ならば、ということで言うけど、今夜の岡崎藝術座『リズム三兄妹』は当日券に並んででも観るべき価値ありです。昨日も言ったからくどいけど、ほんとはもっと熱烈にオススメしたいのだ。現場に変な影響があったりこれから観る予定の人の興を削ぐのがイヤで今まで抑えめにしていたけど、もう今日が最終日だから言ってしまってよいだろう。必見! これが演劇の最先端、などという言辞はあまりに陳腐だから言わないけども、とにかく面白い、演劇の魅力のいっぱい詰まった作品だと思う。ただし役者への負荷は相当高いので、そこを最後まできっちりクリアーして(あるいはメーター振り切って)くれるかどうかがカギではあります。行けるところまで行ってほしい。

http://okazaki.nobody.jp/next.htm#rhythm2010




それと一見関係ないような話で、3/6のジュンク新宿イベントの選書のために、これは一部ネタばらしになるけど、須賀敦子の『ユルスナールの靴』を再読している。昔、とある人に、須賀敦子の中では『ユルスナールの靴』が好きなのですと言ったら、あれは彼女の中ではどちらかというと失敗してるでしょう、と言われ、なるほどそうかもしれないと思った。たしかにエッセイの完成度という点では、『ミラノ 霧の風景』や『コルシア書店の仲間たち』や、『ヴェネチアの宿』や『トリエステの坂道』といった作品のほうが透明感のある文体と構成で、よくできている、のかもしれない。それらはいずれも素晴らしい。でも、再読していて、やっぱり『ユルスナールの靴』にいやおうなしに自分が惹かれてしまうのは、他のエッセイにおける須賀敦子の文体が、よくよく見れば完成度を追求するあまり「演じて」しまっている部分が皆無であるとはいえず、そこが少々息苦しく感じることもある……ということを考えると、この『ユルスナールの靴』における、とりわけ中盤以降の文体には、彼女の「本気」を感じる。それは、マルグリット・ユルスナールという先行者への敬意の表れでもあるだろうし、須賀敦子にしてはめずらしい、余裕のなさの表れともいえる。


だが、ここで前述の岡崎藝術座の話とも繋がるのだけど、俳優に負荷をかける、ということがあって、これは例えば、多田淳之介や松井周や岩井秀人といった他の演出家たちも意識しているところであると思う(というか「俳優に負荷をかける」という言葉自体を彼らの口から聞いて知ったのだ)。で、過剰に負荷をかけることの効用というのは様々なのだろうけど、端的に表れるのは、俳優が、やんごとなく「演じて」しまうという、その俳優が俳優であるという成立条件そのものを脅かす試みであるように思うのだ。「演じて」しまう余裕を奪うというか。


それとまったく同じである、と言えないにしても、ある完成された作家が、どんどんうまくなっていってしまうという問題はあって、それは、完成されたみずからの文体を、自己模倣していく、ということでもある。それは、大なり小なりどんな作家にもありうることだし、別にそれでいいのかもしれないが、ある作家の作品をよくよく読み込んでいくと、むしろ気になるのは完成されたウェルメイドな文体よりも、その作家の能力の限界を垣間見るような、綻んだ部分にこそ、魅力を感じるということはある、のではないか。


さあ、そろそろ横浜に行かなくては。