Q憩。


新居はいまだにトラブルが解消しなくて、いまだ仮住まいの身であるのだけど、ひとつ大きな利点は近所に飲み屋がたくさんあって、わりと安い値段で深夜まで飲み耽ることができるということ。ただ、それが良いことなのか悪いことなのか。まあ、昨日は、飲めてよかった。引っ越してから毎晩飲んでいる。


生きていく以上、他人と関わってしまう、そして良くも悪くも影響を与えてしまうということについて、(その考え方自体が傲慢であるということはさておいて)考えざるをえない状況がある。そこで、もう後戻りはできないのだという気持ちと、いや待てよ、本当にこのまま突き進んでいいのだろうかという気持ちとがある。


その軋轢が面倒になると、恥が生まれる。この世に存在していることが恥ずかしい、消え入りたい、という感情は、今だって抱かないわけではない。だけど、基本的にはやっぱりそんなの(悪い意味で)ナイーヴな甘えにすぎない。もう、存在しているのだから、生きているのだから、いい加減、その既成事実は認めないとね、と思うくらいの年齢にはなっているのだし、だいいち、息を吸って吐いて、ご飯食べて寝て、本を読んで、いろいろ見聞して、ということの繰り返しの結果それなりに積み上げてきた自分のリズムと、そのリズムによって繰り出される判断について、自分なりに自信を持たないといけない。


以下は、3/6ジュンク新宿イベントに向けた新書のためのメモ。すべて須賀敦子ユルスナールの靴』から。

 きっちり足にあった靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶに自分が行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。

マリ・ノエルの背後には、きびしい合理性にもとづいたフランスの典型的な高等教育があった。私がイタリアに求めるものが、ただしい、と彼女は私を勇気づけた。でも、彼女には、たぶん、私がそれまでに受けた、あるいは勝手にしりぞけてきた、ばらばらでごちゃごちゃな教育/教養のことを、よく知らなかったのだ。まだそのことを自覚していなかった私は、「精神」ではなく、もっと総括的な「たましい」があると信じてイタリアに来た、と彼女に打ち明けた。その選択は、当時の私としては、それなりに当たっていた、と思う。あるひとつのことをのぞいて。精神が、知性による判断の錬磨でありその持続であることに私は気づいていなかったのだ。そして「たましい」に至るためには「精神」を排除してはなにもならない、ということにも。

(*マルグリット・ユルスナール『アレクシス』からの引用)
「ある夕方、姉が死んでまもなくのことだったが、わたしは、いつもにまして途方に暮れた気持でプレスブルグに帰った。姉を、わたしは心から愛していた。彼女が死んだことでじぶんが身も世もなく悲しんでいた、とまでいうつもりはない。感情が乱されるには、苦悩が激しすぎた。苦しみに呑みこまれると、わたしたちはじぶんのことしか考えなくなる。想い出というかたちで、同情することをそこから学ぶのは、ずっとあとの話だ。わたしは、じぶんで考えていたよりおそく戻ったのだが、何時に帰ると母に約束したわけではなかったから、母がわたしを待っていたということはない。ドアを押して部屋に入ったとき、母は暗いなかに座っていた。亡くなるすこしまえのころ、母はよく、もうすぐ夜になるという時間に、なにもしないでしずかにじっとしていることがよくあった。そんなとき、彼女は、無為の状態、あるいは闇、にじぶんを馴らそうとしているみたいにも見えた」

 あしたはジェノワに入港するという日の夜だった。イタリア本土とシチリア島をへだてるメッシーナ海峡を船が通り抜けるとき、大きくはない町の明りが、乾いた八月の空気のなかで手をのばせばとどきそうなところに黄色くまたたくのが見えた。メッシーナ、私はあたらしく覚えたばかりのやさしい音を、なんども口のなかでくりかえした。こうやって、あこがれつづけた大切なものに、じぶんは一瞬、一瞬、近づいて行く。いま思えばカラブリアの沖のあたりをゆっくりと航行していた船の甲板で、私は、あやうい蝋燭の炎のように揺らぎつづけるじぶん自身の暗いたよりなさを、刻々と離れてゆく街の明りと見くらべていた。

家に伝わった銀器やクリスタルに加えて、書きためた原稿や本を詰めこんだトランク(たぶん複数の)を、父の最期をみとったローザンヌのホテルに残して、彼女は、一見、気ままな旅から旅への生活をつづけるのだが、彼女の場合、旅は逃避だったとはいいきれない、そして私をしんそこ感心させる、特技、といっていいものがあった。それは、机とか静寂とか、ふつう人が書きものをするのに不可欠と思うものが不在な環境でも彼女は平然と書きつづけることができた事実だ。書くことと同様に、やむことない放浪の旅も、ユルスナールにとっては、もって生まれた天性というほかないのかもしれない。

「恋は懲らしめに似ている。わたしたちはひとりでいられなかったから罰せられているのだ」――ソクラテスに愛され、彼の死をみまもったパイドーンの物語に寄せて。

 また彼女はこういって私を叱ったこともあった。もうパリまで来てしまったのだから、勇気をだして、ふつうの女になるのをあきらめなさい。そのときも、私は腹をたてた。あきらめろなんて、あなたは、まるで、雨降りだから傘させみたいに簡単にいうけど、それじゃ虫にでもなれっていうの。おこりながら、私も笑い出した。
 なんのために勉強しているのか、あるいは、将来、どんな職業をえらぼうとしているのか、扉を閉めたままで回答をおくらせて、ぐずぐずしているじぶんが、もどかしかった。その扉を開けると、たとえば、じぶんの価値を厳しく決めてしまう〈他人の目〉のようなものにわらわらと取り囲まれるのではないかと、そのことが怖かった。なにも決めないで時間をかせいでいる私を見て、シモーヌこそ、いらいらしたのかもしれない。

「ここに書いたことはすべて、書かなかったことによって歪曲されているのを、忘れてはいけない。この覚え書は、欠落の周辺を掘り起こしているにすぎないのだから。あの困難の日々、わたしがなにをしていたか、あのころ考えたこと、仕事、身をこがす不安、よろこびについて、あるいは外部の出来事から受けた深い影響、現実という試金石にかけられたじぶんにふりかかる終わることない試練などについても、わたしはまったく触れていない。たとえば病気について、またそれと必然的に繋がる、人には話さない経験についても、その間ずっと絶えなかった愛の存在と追求についても、わたしは沈黙をまもっている」
ハドリアヌス帝の回想』覚え書

 暗闇を進む。何メートルかは、照明が足もとを照らしてくれる。が、また、厚ぼったいマントのような闇がすっぽりと私を包みこむ。すこしずつ、高みに向いつづけているはずなのに、周囲が見えないから、どれほど来たのか、その実感が得られない。骨室へとつづく螺旋階段は、さまよっていたあのころに読んだ、私を捉えながら実体がまるで把握できなかった霊魂の闇にかぎりなく似ていて、そのことに私は心のどこかで安堵していた。

ユルスナールは、dépaysementの一語でこの時代の孤独を表現しているが、これこそは彼女の歩いた「霊魂の闇」の時間ではなかったか。ちなみに、手もとの辞書には、dépaysement=異郷で暮らすことの居心地の悪さ、とある。
 自己をたえず言語で表現しようとすることがそのまま生きる証左でもある作家にとって、自国語を話す機会もなく、またこれを聞くことができない空間に生きることが、二重の孤独を意味するのは容易に理解できる。

 書いては消し、消しては書く。霧の深い日、見え隠れする信号灯に行きなやむ長距離列車のようにたどたどしく進む他に文章をつくるすべを知らない私だが、ユルスナールのこの箇所を読むたびに、なぜか深くなぐさめられる。じぶんの非力に焦燥を感じてよいはずなのに、どうしてなぐさめなのか。たぶん、ほぼ彼女たちの当時の年齢でもあった四十五歳からの二、三年間、私なりに持つことを許された、あの熱に浮かされたような、狂的といっていいほどの速度と体力と集中で仕事ができた時代を思い出させてくれるからだ。まちがえた場所に穴を掘ってそのことの危険に気づかないウサギみたいに、いまになって思えばその仕事も数多い私の試行錯誤のひとつにすぎなかったのではあるけれど、とにかく全力を注ぐ対象ではあった。あの精力と、当時、じぶんが愛情と信じていたものとを文章を書くことに用いていたら。そう考えることが、稀ではあっても、たしかにある。時間が満ちていなかった、いや裸なじぶんに向かいあうのを、避けていたのかもしれない。いずれにせよ、そのことを漠然とではあっても知っていた常夜灯のような覚めた一点がじぶんのなかで明滅していたことを、もうひとりのじぶんがどこからか見えていたことも、ほんとうだ。

 環状の柱廊から「島」に渡るために、皇帝は取り外し可能の木の橋を設計したという。橋さえはずせば、島は二メートル足らずの水面をへだてて、完全な孤立を確保する。「劇場」であったという伝説を退けた研究者たちは、この蠱惑にみちた空間の用途についてこんな結論を出した。
「島」の建物は、晩年とみに気むずかしくなったハドリアヌスがひとりになりたいとき、あるいはごく親しい友人と緊密な時間をわかちあいたいとき、さらに、読書に没頭したいとき、この橋を渡って、「島」に閉じこもったのではないかというのである。「島」には、皇帝だけのためと考えられる図書室もあるし、ボイラーをそなえた床暖房つきの温水浴場もある。しかし、召使の控え室に通じる階段は存在しても、彼らが長時間、「島」にとどまれるような設備はどこにも見あたらないという。「島」は、えらばれた孤独の形象化に他ならないのだと。

 ながいあいだ、私は、〈廃墟〉というものにあまり関心を覚えることがなかったように思う。乱暴ないい方をすれば、廃墟がまだ〈生きていた〉時代が、じぶんにとってあまりに遠いところにあったものだから、興味をもてなかったのかもしれない。〈廃墟〉に時間をとられるなんて、とさえ一方的に決めつけ、これに情熱をもやす人たちに対してまで、私は反発していた。古代と対峙することを、あたまのどこかで恐れていたのかもしれない。
 時がすぎて、〈廃墟〉になぐさめを得ているじぶんに気づいたのは、比較的最近のことだ。それは、あるとき、古代についての本を読んでいて、廃墟は、もしかしたら、物質の廃頽によってひきおこされた空虚な終末などではないかもしれない、と考えたことがきっかけだった。それにつづいて、人も物も、〈生身〉であることをやめ、記憶の領域にその実在を移したときに、はじめてひとつの完結性を獲得するのではないかという考えが、小さな実生(みしょう)のように芽ばえた。かつては劣化の危険にさらされていた物体が、別な生命への移行をなしとげてあたらしい〈物体〉に変身したもの、それが廃墟かもしれない。そう考えると、私はなぐさめられた。
 廃墟はまた、人びとが歩いてきた、そして現に歩いている、内面の地図のようにも思えた。迷路に似た廃墟の道をたどりながら、私たちは死んでしまった人たちの内面をなぞったり、あるいはまだ生きているじぶんの内面に照合したりすることができた。そう考えてくると、なにも幼稚園の遠足みたいなよそよそしさで廃墟を歩くことはなかった。廃墟は私たちの内面そのものであり得たかもしれないのだから。

ユルスナール『黒の課程』よりの引用)
「アンリ・マクシミリアンは主街道をえらんだ。だが、ゼノンは横道を行くことにした」

あたらしい知識への意欲をなくしていたのは、そのころ私にふりかかった大きな不幸に気をとられていたからでもあったのだが、なにもかもがいやになって、いっそのことこの世から消えてしまいたいと、不遜にも、日夜、女ひとりの無力をかこっていた時期のことだった。

北国の太陽だ。でも、北国人でもなく、ブロンドでもない私は、ユルスナールみたいにまぶしい顔をしないで、しっかりと海を見わたすことができた。かもめの飛びかう青い海面を見て、私は、思った。とうとうここまでやってきた。文章をつづるのがおもいがけなくじぶんの仕事になって以来、めずらしくひとつの「点」に到達したような、充実感があった。

人は、じぶんに似たものに心をひかれ、その反面、確実な距離によってじぶんとは隔てられているものにも深い憧れをかきたてられる。作家ユルスナールにたいして私が抱いたのは、たしかに後者により近いものであったが、才能はもとより、当然とはいえ、人生の選択においても多くの点で異なってはいても、ひとつひとつの作品を読みすすむにつれて、ひとりの女性が、世の流れにさからって生き、そのことを通して文章を成熟させていく過程が、かつてなく私を惹きつけた。
 ユルスナールのあとについて歩くような文章を書いてみたい、そんな意識が、すこしずつ私のなかに芽生え、かたちをとりはじめた。彼女が生きた軌跡と私のそれとを、文章のなかで交錯させ、ひとつの織物のように立ちあがらせることができれば、そんな煙みたいな希いがこの本を書かせた。