トークイベントに関するメモ。


昨日の仲正昌樹『〈リア充〉幻想』刊行記念トークに来てくださったみなさま、本当にありがとうございました。あんなにたくさんの方が来てくださるとは! 感謝です。トークについてはもっと面白くできた部分もあるでしょうし、そのあたりはさる筋の方から貴重な御意見も頂いたので、より精進するつもりです。それはともかく、後半は浜野喬士、大澤聡の両人にも参加してもらうことでいくつかの論点が引き出されたとも思いますし(もちろんそれを論じきることはあの場では難しいのですが、好きに泳がせてくださった仲正さんに感謝!)、もっと素朴なところで、仲正さんの、「ひとりで生きる」といったような感覚を(あるいはそれ以外の何かでもいいのですが)、持ち帰っていただけたりしたら嬉しいです。




ところで、昨日のトークはテーマとしても、そして方法論としても、チェルフィッチュの新作を意識する形になった気がしてます。テーマについてはこれまでもここに書いてきたし、実際に『わたしたちは無傷な別人であるのか?』を観てもらえば一目瞭然ですが、トークの方法論について思ったことがあったのでメモしておきます。


まず、ジュンク堂書店新宿店でのトークを含め、様々なトークイベントをそれなりの数観てきて、うまくいったトークも、イマイチそうでもなかったトークもある、としたら、ではそこで想起される「面白さ」ってなんだろう? ということ。


トークイベントの最大の特性は、もう来てしまった以上、チャンネルを替えられない、ということにある。テレビやラジオだと「つまらない」とか「退屈」ということで容易にチャンネルを替えられてしまうし、DVDだと、早送をしたり、観ること自体を辞めたり、できてしまう。つまりそこには、「飽きられない=面白い」という基準が存在している。いっぽうトークイベントでは、もちろん観客たちに自由に退出できる権利が与えられているとはいえ、ある時間、つまり2時間くらいの尺を、とりあえずは最後まで聴いてやるか、という腹の据わった状況がある。これは、実は演劇にとてもよく似ている。


実際、お客さんの中には寝ている人もいる。でもそこで不安になって「場を盛り上げなくては」という方向に走りすぎるのは、(昨日のトークに関しては)良くないことだ。もっとどっかんどっかん、盛り上げていい場もあると思うけど、それは仲正昌樹さんとの関係の中でやるべきではない、と思う。そうすると消えてしまうものがあるし、やりたいのは、その消えかねないもののほうをじわじわと炙り出すのだ、ということではあった。時には、消えること、消してしまうことを恐れてはいけない場も確実にあると思うけど(語り手、書き手は、どこかで何かを壊してしまう暴力的な存在であることを避けられない)、いっぽうで、その消却に対してセンシティブである場というものも存在する。


以前、『F』のアフタートークの時にやったみたいに、いきなりもの凄いテンションと熱量で燃料を投下して、そのままグイグイ引っ張っていく、といった方法論も好きだ。それによって引き出されうるものもあるし、短い時間の中では有効な作戦でもあると思うから。でもいっぽうで、長い時間の中で、じわじわ見えなかったものを炙り出していく、ということもやってみたい。


そしてこの炙り出しは、ある種の創作課程にも似ている。つまり、最初から骨格を作って細部の完成度を高める、というやり方ではなくて、地べたから何かを積み上げていく、それによって徐々に全体像を顕わにしていくというサグラダ・ファミリア的な、つまりは「常に建築中」という手法。自分としてはやはりそちらに興味があるし、ずっとそれを追求してきたとも思う。しかしこれは、グダグダになるのと紙一重ではあるわけで、そうならないためにはそれ相応の地力と準備を必要とする、ということも痛感している。


で、昨日の反省点としては、そのために果たして2時間という尺の長さは適切だったのかということ。とはいえあれ以上の時間を書店で確保するのは難しいというか無理なので、ならばその尺の長さの中での炙り出しとしてどのような方法があるのか、ということを、もっと体感的に獲得しないといけない。それと今書いたように、この方法論をやるためには、やはりこちらの側にそれ相応の、言ってしまえば教養というか総合的な意味での体力というものがどうしても必要で、それがまだまだ全然足りないとも痛感した。とはいえ人生は有限で、どこかに完成形があるわけでもないから、打って出ていきながら、ということになる。




最後に。さっきは似ていると書いたけども、明らかに異なるのは、演劇というものが反復されることを前提にしていて、つまりは作品として提示されている。その作品には質量というか、圧倒できる力のようなものはある。それに対してトークイベントというのは実に質量があやふやで、お客さんの期待するものや集中の仕方も、かなりバラバラというかチグハグである。そのアドホックさというか、真の意味での一回性(その場性)のようなものは、興味深いところではあるけど。


以上、メモでした。これは、お客さんを楽しませるとはどういうことか、という話でもあります。また、一昨日横浜で収録した、あるおふたりの作家の対談からも大きな示唆を得ています。対談は次の「エクス・ポ」に掲載予定。


さて、岡田利規の『コンセプション』(天然文庫)をこれから熟読したいと思います。