『青春60デモ』にかんするエクスQズ。


昨日の杉原邦生演出『青春60デモ』、すごい数奇な体験だった。


まず、観客が踊った。実にほとんど障壁を感じさせずに、お客さんを踊らすことに成功した。これは超凄いことで、例えば快快ですらちょっと難しいことかもしれない。きっと、かの寺山修司にも難しかったろう。ここには、自発性とか、主体性とか、受動的、能動的、といった言葉は存在しなくて、ただ「みなさんも踊りましょう、いえーい!」的なノリだけが存在して、それに思わず乗せられてしまうという「祭り」になっていた。「祭り」って簡単に言っちゃうけどそれをあっさり実現してしまうのって、くにおにしかできないんじゃないか、と感嘆した。なんか、くにお自身の踊りも身体も、他者を威圧するようなダンスでは全然なくて、一緒に踊ろうぜ〜、と参入させるそれであるところが良い。


ただいっぽうで、ひとつ大きな不満も残っていて、それは初恋のシーンを再現する、という一連の場面なのだけど、あそこの扱いというか演出の意図がつかみきれなくて、観ていて脱落した。どこ(どのレイヤー)に、彼や彼らが乗って演じているのか? 歴史、あるいは個人史というものに対して、杉原邦生が演出家としてどのようなスタンスをとっているか? といったことが、あのシーンであやふやになったというか。そこが『青春60デモ』というタイトルを冠したこのとりあえずは「演劇」と呼べる作品の、ひとつの肝にもなりえたはずだと思う。ところが冒頭の、ヘルメットにゲバ棒という姿で彼らが「わー!!」と叫びながらスローモーにデモ行進している、あの不穏なシーンとのリンクも結局つかみ損ねて、演出的な意図や訓練からはずれた、無軌道で、ただレア(生)っぽい生身の身体をそのまま提示されているようにも感じた。逆に、すごくリアルに生っぽい、というならそれはそれでよかったのだけど。


人間は、ほうっておくとついつい何かのキャラや紋切り型を「演じて」しまう種族だし(くにお君もアフタートークでそんなこと言ってたね、たしか)、演劇にはそれとは全然違う立ち方ができるはずだ。それがフィクションというもののポテンシャルだとするなら、60歳をすぎた彼や彼女たちの、フィクションならではの別様の立ち方が観たかったし、あのシーンに至るまではその可能性をかなり感じていたのだった。


ちなみに、あの最後のサプライズでも繰り返したダンスは、たぶん世代を超越したエグザイルという意図だと思うけど、もう何もかも巻き込んでしまえ、席が足りなければ増やしちゃえばいいじゃん、みたいな杉原演出の勢いを感じて、そこがとても気持ち良かったです。まあ、踊れと言われもふつう踊らないよね、観客は!