死守せよ、だが軽やかに手放せ。


昨日の時間堂『月並みなはなし』のプレビュー公演でもらった当日パンフを、一夜明けて朝、熟読する。手にすれば一目瞭然の、再々演ならではの仕掛けになっていて、演出家・戯曲家の黒澤世莉が、この『月並みなはなし』という作品を大切に扱ってきたことがわかるし、実際、非常によくできた素晴らしい戯曲である。今夜から座・高円寺2で、3月14日のホワイトデーまで公演中。本番も観に行きます。ひとりでも、デートでも、観に行くといいと思う。下にいろいろ書いてあるけど、普通に、いや普通に、っていうのも変だけど、というかこの作品にとっての肝になる言葉だけど、普通に楽しめる作品だと思います。
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今回、時間堂がやろうとしてること(のひとつ)にとって、お客さんが目の前にいる、ということは、とても大きなことなのだと思う。昨夜のプレビューで、時間堂とその俳優たちは、初めて「お客さん」の存在を知り、戸惑った、ようにも見えた。後半、戯曲の迫力が増すにつれて、彼や彼女たちは舞台での立ち方を知り、互いの関係を知り、そして、ようやくお客さんとの関係の取り方も少しずつ把握していったのだ、と感じた。こうした戸惑いは、決して、俳優が未熟だからとか、演出が下手だから生じた、ということではない。戸惑いというものに対して、強者としての固定した身体で立ち向かうのではなく、それを柔軟に受け入れる(委ねる)方向を目指しているから、生じるのだ。そしてこの戸惑いは彼らの中に取り込まれ、吸収され、何か別のものになって本公演で花を咲かすだろう。と信じてる。


演出家の中にあるイメージを、俳優に植え付けて固着させるというやり方で、訓練を通して、いわば俳優がただ役(キャラ)になっていく、ということであれば、もっと最初(プレビューとしてお披露目する時点)からハイクオリティになる確実性は増したはずだ。けれども時間堂は、少なくとも今回に関しては、そういう訓練の仕方をあえてしてこなかったのだと思う。彼らは、お客さんという存在を受け入れ、通過させることのできる身体。お客さんと出会える身体。を、舞台の上に現わそうとしてる、のだと思う。俳優を、舞台の上で生きさせる(あるいは死なせる)困難(だが演劇の土台的な部分)に、チャレンジしてる? というか。




この期間中、時間堂の演出ノート(ブログ)に、こんな言葉があった。「死守せよ、だが軽やかに手放せ」と。なんだか、かっこいい。ピーター・ブルックの言葉らしい。さて、では彼らはいったい何を死守し、何を手放すのか? そこが『月並みなはなし』の見所だと思ってる。それを観に行く。手放される瞬間を。


以下は演出ノート20より。

私たちは生まれて、死んでいく。それだけだ。

演劇も、毎公演生まれて、死んでいく。演劇をかこむわたしたちは、祝福して、手厚くとむらってやるだけだ。

そのためにまず自分が、毎日死んで、生きないと。

自分たちの過ごしてきた時間を信じること。他人に委ねること。演劇に頼ること。

自分を信じてやらないと。けっこう出来る子なんだから。