〈やさしさ〉の闘い。


昨夜、時間堂の『月並みなはなし』(二日目)を観た。プレビュー公演の時とは全然異質な、仮に「演劇の時間」とでも呼びたくなるものが冒頭から立ち上がっていて、感動した。開始三分にして、自分は涙を浮かべていたのである。俳優たちは、一回生きて、死んで、また生まれ変わってそこにいるように見えた。ごく普通の、月並みな人生の中に。


今日、明日で公演は終わる。どこまで膨らむかわからないけど、黒澤世莉さんも、時間堂所属の、あるいは常連の俳優さんたちも、たくさんのものをお客さんにあげて、そのぶんたくさんのものをお客さんからもらうといいなと思う。




以下、少しだけ個人的なことを書きたい。


昨夜は帰り道、〈やさしさ〉の闘い、というフレーズが浮かんだ。それは、大学の時の師匠が書いた本のタイトルでもあって、いま思うと、劇評家の鈴木励滋が、時間堂という存在をぼくに教えてくれた理由(感覚)もわかる気がする。


ぼくとしては、黒澤世莉がもっと性格悪い人になって、衆人に嫌われてもいいくらいの勢いで演出家としても尖って、「時間堂はこういう方法論なのだ!」とバーンと世の中に提示してくれてもいいんじゃないかと思ってる。その一方で、いやいや待てよ、時間堂の周辺に集まってくる人たち、例えば今回の座組を見ると、これは黒澤世莉の中に〈やさしさ〉があるからこそ、生まれたものではないか、とも思ったりする。実際、そういう人たちの存在こそが、彼にとっての創作の動機(源泉)になっているのだろう、という気配もある。


一般論になるけど、作家(アーティスト)というのは因果な存在で、世界を切り取って作品として提示する、その課程において、誰かを傷つけてしまいがちである。それは作家の中にある傷つきやすさのようなものの裏返しでもあって、作品という世界を守るために、時には、他のものを傷つけることも厭わない、という覚悟が、作家には必要なのだと思う。だからもう、作家が性格悪いのはある程度仕方ないことだ、とぼくなんかは割り切っているのだけど(割り切らないと編集者なんてやってられない、という事情もある)、いっぽうそこで、誰かを傷つけることを怖れる作家もごく稀にだがいて、たぶん黒澤世莉は、後者ではないか。大抵そういう人は(演出家も含めた広い意味での)作家には向いていないと思うのだが、にもかかわらず彼を作家たらしめているものがあるとすれば、それは、彼の中に守るべきもの(人)たちがあるからだ。


時間堂をこれまで何作か、少ないながらも観てきて感動するのは、そして可能性を感じるのは、まさにそこに守るべきもの、大切にしているものがある、ということだ。しかも、それを丁寧に扱おうとするハンドメイドの手つきがある。その時間堂の黒澤世莉という作家が、〈やさしさ〉を武器に、誰かを傷つけるのではないやり方で、どういう世界をこれから見せてくれるのか? 個人的にすごく楽しみにしてる。


でも、最後にもう一度言うけど、ぼくは作家という存在は、誰かを傷つけてもいいと思っている。作家だから許される、ということではなく、それは決して許されることではないのだが、許されない、ということを引き受けて生きていくのが作家だとも思っている。でも、答えはひとつではない。