無縁社会。


昨日ひさしぶりに下北沢に行って、お芝居を観た帰りにおでん屋で知人と一杯やったのだけどすでに下北沢が過去の、故郷のようである懐かしい、親しみのある、安心できる町に感じられてそれってどうなのかと反省はしてみる。下北沢から歩いて帰れる東松原という町で数年間、友人たちと一軒家を借りて共同生活をしていたのだ。あの家はどーなるのだろうな。昨日観た箱庭円舞曲の「とりあえず寝る女」の当日パンフレットに作・演出の古川氏が「引っ越したら家は死ぬと思う」みたいなことを書いてて、そうかもしれないと思ったけど今も下北沢にはたくさんの人の生活が日々あるわけで、当然町はまだ生きている。


その数年間の生活は躁と鬱に包まれていた、なんか薄い膜のようなものとして。今住んでいる町、あるいは家にはそんなような膜がない。おそらく必要ないのだろう今のところ、ここはとても静かである。今日のように雨の日は通りを走る車が水飛沫を飛ばすしゃーしゃーという音が聞こえてはくるけど、電話にも出ないしツイッターもメールも見ませんてことにすれば誰にも妨げられず世界と無縁になれる。たとえそれが一時的なものであれ。



NHKで「無縁社会」という特集番組をやっていた。自分は無縁社会をさほど恐ろしいと思わないし、むしろどこか歓迎するようなところもある。中学の頃、一人暮らしをはじめた時はさすがにホームシックで寂しかったけど、それも慣れてしまう。それに孤独というものは、実はそんなに荒廃した、砂漠のようなものでもない気がする。そこでもちゃんと草花は育つ。


正直なところ、人が、どうしてそこまでコミュニケーションを求めたがるのか、自分にはわからない。それはあなたが恵まれているからだ、とゆう指摘もどこかピントはずれのような気がする。そんなにまでして求めなければならないものなのか、それは。



この今の新しい部屋への期待は、ただ世の中とは無縁の静かな時間を提供してほしいということで、それで時々パソコンを開いて仕事をして、本を読んだり、町へ出てお芝居観たり買い物したりで、たまに誰かとお酒を飲んで、ささやかに暮らしていければ充分満足だ。しかし世の中はもう少しばかり複雑にできている。あらゆることはせずにすめばありがたい、と思う反面、ある時代を生きるということはいやおうなくその時代の空気に呑み込まれていくということでもある。その空気とか波とか風のようなものを拒絶しようとは思わなくて、というかそこと無縁になるのは難しくて、ただ問われるのは、そこでの立ち方、泳ぎ方のようなものだと感じてる。


調整のためになんとなく書いてみた。さて。