チェルフィッチュ「フリータイム」

演劇というものは敷居が高いと思っている/思っていた。シネフィルよろしく演劇フリークの(ゆるい)共同体というかサロン層があって、彼や彼女たちが、彼や彼女たちにしか分からないような参照系の言葉で演劇を語り合っている(という偏見があり)、そのつながりの中に今さら後発者の入り込む余地はなく、何度かチャレンジはしてみたけれどやはりその壁は厚く(と思え)て、とりあえずアレ(演劇)は専門外、演劇&ダンス通の相棒に任せればいいと位置づけていた。


ところがチェルフィッチュを今さら初めて観てみれば、驚くべきことに演劇なるものに対する障壁をまったく感じることなく、それどころかたいへんに面白く、心の底から楽しめた、のは、「これは演劇ですよ」という圧力がいっさいなくて、「今からフリータイムが/を 始まります/始めます」という宣言とともに開始された演劇らしきものは果たして演劇と呼んでいいのかどうか、別になんと呼んでもいい、そこには「フリータイム」という名がとりあえず与えられているからただそう呼べばいいのだと思うと、ものすごく、ほんとうにものすごく気持ちが楽になって、これほど解き放たれた気持ちで何かを観るという体験はおそらくかつてない。衝撃である。


「自由」がテーマであるらしいと後でパンフレットを観て知ったけど、実際に「フリータイム」を通して私が感じたものは「自由」かそれに近いものであった(に違いない)。ただし、そこで体現された「自由」は最初から何もないまったくの無秩序空間ということではなくて、演出家の岡田利規によって計算され、またそこに稽古の時間を通して見えてきた計算不可能なものが取り込まれていった結果として成立したものである(たぶんね)。


とにかく、この「フリータイム」によって「自由」に近い何かが立ち上げられた。そこで私たちの既成概念や主体のようなものはクシャリと潰されて、そのことに私たちがほとんど気づかないくらいそれはほんとうに静かにゆるやかに執行されていて、そのような「自由」、いやもはや「」をはずれたフリータイムにおいては、もしかしたら当の岡田利規チェルフィッチュさえ予期せぬような恐ろしい(愛おしい)出来事が起きていたような気がするのだ。


以下、レビューという形式を逸脱するものではあるけれど、演劇は門外漢であるということに開き直らせてもらって(反則技っぽいですが)、初のチェルフィッチュ体験で感じたことをメモしておきたいと思います。





ストーリーと舞台装置

朝の出勤前にファミレスに30分だけ寄って派遣先の職場に行く女性、彼女は言葉のない日記をぐるぐる書いていて、それを好奇の目で見つめる別テーブルの男性2人(鈴木くんと東くんだっけ? こ、この名前って……)、それからファミレス店員のサイトウさんなど、その時間と場所と記憶をめぐって「フリータイム」は展開される。といっても彼や彼女はえんえんそれぞれの妄想/思い込みを語り続けるだけで、しかし面白いのは、その妄想/思い込みは彼や彼女の頭の内で展開されるのではなくして、たぶん身体がそこにある演劇だからこそできる、三人称&一人称という新言語で語られるので、その妄想/思い込みはもはや単なる自意識の殻の中にはなく、といって明確な宛先に届けられるわけでもなく、ただ六本木スーパーデラックスの舞台/空間に広がるばかり、いやこれが、とても心地よい空間として体現されていて、演じる俳優たちもさぞかし気持ちよいだろうーと思われた。


今回のセッティングは中央に舞台があって、それを挟み込むようにして両サイドに観客席があり、だから観客はお互いの顔を観ながら「フリータイム」も観ることになっていて、つまり「フリータイム」を観る“私たち”は装置上の仕掛けで“私たち”も観ることになるけれど、それは自分の内面を見つめるようなあるいは鏡を観るようなことでは全然なく、キミとボクのお見合いなんかでもなくて、ただ「フリータイム」と名付けられたもの、つまりは主語とか主体とか「私」や「私たち」や「彼女」、それから「この人」といったものが染みだしていった結果、私が彼であり彼女が私たちであるかのような空間を観ていて、そのようにして成立したフリータイムの空間においては、主体の底辺とも言うべきものが掘り崩されて俳優たちがただ俳優たちとしてそこにあるしかない、その脆さと強さが同居したような生身の身体に断片化されたテキストが舞い込んでくる/迎え入れられる。

テキストと身体

テキスト、すなわちそこで語られる言葉は、俳優たちの身体の動きとは同期しない(同期しないが言葉は俳優たちのものである。すぐ後で述べるように彼らはきちんとそれを獲得している)。にも関わらずなにかしらのリンクを感じさせるのは、新人であるらしい冒頭の安藤真理の鮮烈な語りからしてそうで、そこからフリータイムはふわりと広がるのだけど、今書いたリンクしているという言い方もやはり少し違って、言葉と身体は、いったい別物なのか繋がっているのか、ありのままというのとも違う、稽古を重ねていくなかでそうなったという、その積み重ねから出てきた「洗練された自然の言葉と身体」という矛盾をただ私たちは聴いて観る、観て聴く。だからそのテキストは喋り言葉のようでいて、日常生活で用いられる言葉とはまったくもって似て非なるものであり、語り手たる俳優たちによって意識されて獲得されるという面倒な手続き(稽古)を踏んでいるせいか、むしろより書き言葉に近い。だからだろうか、私は最初に「フリータイム」が始まった瞬間にこれはまるで小説のようだ! と、思ったのだけどその予感もすぐに裏切られ、俳優たちの身体が動き出した時点でこれは小説にはたぶん(現時点で私が知る限りの手法では)不可能だと感じた。


小説にもポリフォニックな語りや群像劇は可能だが、このような空間性を演出することはできるだろうか? 最大6人の俳優たちが/俳優たちは、距離を縮めたり開いたりと変幻自在に動くものだから私たちの視線も散らばって広がっていく。*1その感覚が可笑しくて、気持ちよくて、快楽と言ってよくて、奇跡の空間としか思えないのだが、もしもこれが「自由」であるとするなら、演劇であれ小説であれ、またこのような「自由」に邂逅したいと(私は)切に願うし、そのようなものを探して見つけ出したいと(私は)考えている、ということはつまり、手当たり次第にいろんなものを観て聴いて触ってということを(私は)するしかない。


あの空間の感触を忘れないためにこのメモを書いてみた。が、それはもはや片想いに近く、すでに切り離されて「私」になった私は、くつろげるあの時間(空間)=フリータイムが恋しい。

*1:さらには、(これは演出なのか偶然の産物なのか不明だが)観客席の後方で発生した物音に対し、俳優が意識を飛ばすというようなことさえもやってのけるので、いったいどこまでが舞台でどこからがそうでないのか、どこまでが演劇でどこからがそうでないのかという、たぶんかつて寺山修司がものすごく考えに考えて奇抜に戦略的にサーカス的にやろうとしたことを、チェルフィッチュはまったく異なる手法で実現しているとも言える。