外へ


とうとう4月になりました。とくに気の利いた嘘も思い浮かびません。あとで思いついたら、なにか嘘をつきます。とりあえず仕事もあるしシラフですけど、ほんとは酒を飲みたい気分なので、酔っぱらって居酒屋でぐだを巻いているような気持ちになって、今ふと思うことから。


最近はわりと忙しく、充実した毎日を送っていて、そして私はそれらしきことをブログに書いたりしているので、なにか、私という人間が順風満帆で前途洋々たる人生を送っているように思われているようではあるし、実際いろんな方からよくそのようにも言われますが*1、そしてたしかに遠い将来に関しては(たんに想像の範囲を越えるので)親の介護とかを除いては不安はないですが、でもねえ、目の前の金のなさは相当にヤバいんですよ。そして本を買ったり映画を観たりするのもタダではないどころか、わずかな財布の中身をまさに身銭を切って支払っているようなものなので、これはもうほとんど文化的なるものへの投資は、自傷行為に近いのかも、なんて思いながら生きております。まあいいんですけどね、生きてさえいれば。*2


とはいえ4月になると多くの人はフレッシュな気持ちになるものだし、そうした周囲のまばゆいばかりのフレッシュネスパワーに気圧されて、へこむ、というようなことも日常茶飯事になるかもしれません。これはちょっと前にYくんがブログで書いていたね。いや、経験上の話をすれば、とくに若い人たちは不安を消し去るために過剰にみずからの選択した人生を肯定する、ということに無駄なエネルギーを注ぎたがる傾向があるので、その周囲にいると、それがたとえ無二の親友のような近しい間柄であっても、イヤな気持ちになることがあるはずです。


でもねえ、突然ですが、人生とか、どうでもよくないですか。自分の人生も、すぐ隣にいる人の人生も、それがちょっと前にあるか後ろにあるかとか、そういうのって、どうでもよくないですか。というか、2008年4月の日本人のそれも東京にお住まいの誰か一般の統計的な人物の人生なんて、その人には失礼だけど、や、その人そのものの人生はそりゃあ大事だけれども、それを統計的にうんぬんして語ることはほぼ無意味ではないですか。それならばルイ十なんとか世の人生だとか、江戸時代の百姓一揆の首謀者の人生だとか、マンモスと闘った氷河時代の勇者とその娘の人生だとか、あるいは小説や映画に登場するジョンやセバスチャンやイーモウや清美の人生を考えるほうが、よっぽど心も軽やかで素敵な時間をつくれそうだと思うのです。


という、いかにもおせっかいな話をついつい書いてしまったのは、こないだとある飲み会で、最近の労働問題についての話になったりしたからですけど(たぶん)、それだけではなくて、やっぱりどうも、ここ数年、そういう語り口がかなり蔓延してきているし、すでにして私たちのほとんどは、その語り口のモードの内部に住まわされているような気がするのです。実はこれはとてもドメスティックな事態で、たぶん地球上の、60億人いると言われている人々の頭の中をもしも覗き見ることができるとしたら、そんなニッポンの右へならえ空気読め的な労働観みたいなことについて考えている人自体、多くても60分の1、いや600分の1とか6000分の1とか、下手をしたらそれ以下なはずで、そう思うと私たちが使っているこの言葉、時にはなによりも大事であるかのように思えたり、逆に空気同然に吸ったり吐いたりしてほとんど意識化されることもなく用いられるこの言葉は、実はとんでもないマイナー言語の産物にすぎなくて、もっと様々な思考や認識の仕方というものが、あってもいいはずだと思うのです。


そして、今現在、過去からの蓄積も含めてなされているあらゆる表現行為は、ほとんど2008年4月の東京における「私」の人生とはまったく無関係につくられているのだと思います。や、もちろん、ある程度の共時性というか、時代の産物、シーン、といったものはあるはずで、「私」という存在もそれとは無縁ではいられないでしょう。けれども、それでもあえて、〈「私」とは無関係である〉というふうに設定した上で、そこであらゆる文化的なものを摂取したいという欲望が、今の私にはあります。それは「『私』というフィルターが先にあって、それを通して作品を読み解く」ことに限界を感じたということでもあります。「私」が好きか嫌いか、「私」が理解できるかできないか、という基準が、たぶん年齢のせいもあってすでに作られてきてしまっているので、「それではここから先には行けない」ということがわかってしまった。もちろん、どこまで「私」を切り離そうとしても、最終的に書いたり読んだりする私は残るでしょう。そしてそれは別に残ったってかまいません。というか残らないと、生きていられないわけだから困る。でもいったん、その「私と作品」という接続を断ち切るところから、周囲を観たい。いろいろなものを観たり聴いたりしてみたい。「私」が属している小さな世界の外側を、つねに意識しておきたいと思うのです。*3


外部を志向する、ということを少し今年度は「フィクション」と関わることでやってみよう、と思っています。というのはこれはちょっと嘘で、たんに今書きながら思いついたし、そうすればこういうことを書いてしまうことの言い訳になるかとも思ったのでした。まあ、飲んでないけど酔っぱらいのつもりだから。それにエイプリルフールにフィクションってのは、なにかしら整合性があるようなないような、だし。でもここで書いたことはたぶん、実践的に、個別具体的に行われるはずです。そしてこの問題に関しては、一般論としては特にこれ以上なにも言うことはなさそうだし、まあ一度、漠然と思っていることを書いておきたかった、というだけのことですので、適当にスルーしてください。では。

*1:それはちょっとだけ、悲しいことなんですよ、あたなは私とは違う、というふうに言われることは。

*2:あと、過去にどれくらい私がひどい人生を送ってきたか、というようなことも語ろうと思えば語れますけど、最近は誰も聴いてくれないし、とくに私自身自分の過去について今はあまり興味がないので書きません。

*3:でもそう思うようになったのは、長年私が「私」について考えてきた結果、もう飽きた、ということでもあります。