私(R)と私(F)


ある友人(S)の日記が復活した。一瞬プライベートモードになって読めなくなっていて、それを私は心配したし本人が大丈夫だというのだからそのうち復活するのだろうし、それでいいと思っていたがやはり復活したのは喜ばしいことで、それはなぜかというと、たんに私がその日記を読むのが好きだからである。


私はある友人(S)をこの現実の世界(リアル?)でも知っていて、だからこそ友人であるのだが、それと書き手であるところのある友人(S)とはやはり厳密には別な存在であると思っていて、ある友人(S)というのはフィクションである。フィクションとして駆動している。そして人は、ある種の人は、といっていいかもしれないけれども、そうしたフィクションとしての人格に突き動かされることがあるのではないかと思う。私もそうした種類の人間である、おそらくは。


私はこれまでブログで日記を書いていて、なんどかトラブルになったというか、いちゃもんをつけられたというか、いろいろ言われることが多かったのだけど、それはつまり私は現実に生きているある人間(M)と書き手であるところのある人間(M)とを同一視されるところから問題が発生するのだ。それはフィクションなのだ、と何度繰り返して主張しても、それは通用しないとかなんとか、そのたびに言われて、そして私はアウトプットできなくなって窒息寸前スパイラルに陥っていった。


しかしこのところ、それぞれの道の第一線で活動する方々にフィクションについてのお話を伺ったり、文献を読んだりした結果、それは単純にいちゃもんをつけてくる読み手のリテラシーが低いのだという結論に達した。現実の私(R)と語り手である私(F)がやはり同じ人間に帰するということは、もちろん当たり前のことである。が、書かれたものを読むということは、私(R)から離れた私(F)が一人歩きする、ということを認めることでもあるはずで、ある意味では幽霊のようなその私(F)は恐怖の対象かもしれないが、否定されるべき筋合いのものではない。私の書き方が悪いとは思わない、というのはむろんエゴイスティックな解釈である。が、そのような書き物を読むというリテラシーなり、そのような書き物に対する耐性が読み手の側にないという事態は、どうやら現実に進行しているようである。耐性というよりは、通常の、日常の言語モードから逸脱するようなものに出くわした時に、それを通常の、日常の言語モードで解釈しようとする以外のことを、多くの読み手はけっしてしようとしないのである。べつに、理解してほしいとは思わない。そこには違和感なり、収まりのわるいものがあるのかもしれない。ならば、その違和感なり収まりのわるさを、そのまま受け止めるということがあってもいいと思うし、もしもそれがどうしてもできないのであれば、読まなければいいのである。単に、それだけのことだと思う。私は誰に対しても、読め、と強制したことはない。


けれども不思議なことに、実名というか、より実名に近いかたちでブログを書くようになってから、そのようないちゃもんをつけられることがぴたりとなくなった。たぶん、名前が存在するだけで、幽霊であるというふうには思わないからだろう。ようするに人は、理解不能なものや、不気味なもの、見えないもの、匿名のものに対して恐怖を感じるし、恐怖を感じた瞬間に、彼や彼女はそれに対して襲いかからずにはいられないのである。


と、うだうだ書きましたー。これはもしかしたら、複層的な現在に生きる、属する、そこで目に見えない現在を知覚する、ということにもつながってくるのかもしれませんが、まあ、今日はこのくらいで。忙しくなってくると、いろいろ書きたくなります。さて今日は早起きして、朝からいよいよ仕上げなければならない原稿に手を入れ、ひさしぶりにやってきたYと同居人Dと共に近所の喫茶店でカレーを食べながら、批評やミニコミについて談笑し、「路字」を取材したいという電話を受けながら、そして今さっき、「エクス・ポ」にアニソンの話を連載している冨田明宏さんにお会いしたところであります。冨田さん、すごくいい人で、かつ物事をよく見ていらっしゃる感じがして、でもそれを性急に言葉にすることへのためらいもある、というような雰囲気の方で、ぜひ近いうちに飲みたいものですわ、と思いました。さて、ばりばり仕事しましょう。