プラグマティックな「断念」


ひといき休憩がてら、ネットを見たりして、それで思います。好き、ということについて。たしかに私は「外へ」ということを書きました。そして実際、あれを書いた次の日くらいに蓮實重彦早稲田文学でのロングインタビューを読んで、ある意味では戦慄を覚えたわけですけれども、たしかに、「断念」ということについては私もかなり頷けるものがあるのですが……。うーん、私は必ずしも、何かを好きになるということを否定はしていないのです。


というのは、たとえば、好き嫌いでものを判別する事がいっさいなくなった、としたら、それは究極的にメタな立場に立つ、ということなんだろうけど、「そんなことももはや不可能だという断念」も私にはあるのです。ある作品を観たり読んだり聴いたりする時に、そこに「私」がずるずるべったりいくのでは、そこから出てくる言葉はそれはつまらないだろうと思いますが、そのあいだの関係性には実はさまざまなものがありうるとも思っていて、メタな視点に立つ、ということもまた、そのひとつの関係性のありように過ぎないと思うのです。


私自身に関して言えば、「私」の卑小さを知っていて、まあその趣味であるとか、好き嫌いであるとか、そういうところを出発点にしても何も生まれてこないだろうと。とはいえ、他に確固たる軸があるわけでもないので、だからちょっとずらして、たとえば雑誌だったら目次を見てみるとか、とりあえずわけもわからず映画館に飛び込んでみるとか、いつもだったら途中で読むのをやめるような本をもう少し頑張って読んでみるとか、せいぜい、そういうことくらいしかできないわけです。もちろん、他人と話す、というのは大きいですけど。


でも問題は、それだけで何かを摂取できるのかどうか、ということです。ある知識を得る、あるものに触れる、あるものについて語る、というのはどういうことだろうかと思います。そこはやはり、その対象となるものとのあいだに、特殊な関係を取り結ばないかぎりは、何も生まれないだろう、という気が私はしています。私の場合はたぶんそうなのだろうと思います。対象に対する愛のようなものがなければ、モチベーションも生まれないし、何かが生まれる気がしない。愛もなく吐き出されたような言葉は、たとえそれがどんなに論理的で、いろいろな整合性がとれていたとしても、それを読む人聴く人の心には、なにももたらさないのではないでしょうか。


というのは、私はやはり誰かが愛を持って何か対象について語る言葉が好きだから、ということもあるかもしれないですが、たとえば、なにかのきっかけで目にしたもの手に触れたものがあるとする、でもそこから、より深くその対象のことを理解したり、その対象が属している世界に分け入っていったりするためには、やはり愛のようなものがないと、私には無理なのです。


そういう時には、私は、その対象が好きになっている「私」を見ます。セカンド自分(@榎本俊二)がそういう「私」を見ています。でもそれが、いわゆる最初の好き嫌いを持っている「私」と同じかどうかはわからない。おそらく、ほとんど見分けはつかないでしょう。でもちょっと違う。とても、細かく。でもどっちがオリジナルでどっちがフェイクかってことは問題じゃないのです。とにかく、対象との関係が結べるのであればそれでいいのだと思います。



そのような意味においては、私は「私」というものを自覚するだろうし、対象との関係性も自覚するでしょう。でも繰り返しますがそれはメタに立つということでは決してなくて、ただ対象との関係のありようを、そのままにしておいたらただ通り過ぎるだけであろう日常のモードから、ちょっと、ズラすだけなのです。


というのは、私は私の「自覚」もまた疑わしいものだと考えているところがあるからです。思考によって高みに登れるという前提は私にはありません。けれども、なんらかの理由によってある対象とのあいだに関係性が生じ、そこで何かが生まれれば、事実は体験として積み重ねられる。今の私は、そのような体験の蓄積を欲しています。もちろん、プロの批評家として何かを語る、ということを考えているのであれば、より、言葉に対して意識的になっていくことは必要だろうと思います。けれども私はまだ全然その域には達していなくて、というか、やはり書くよりも語るよりも観たり読んだりすることのほうが上位にあるのです。そして、観たり読んだり聴いたりといったことを活性化させていくためには、ある対象との出会いが血肉となって蓄積されているという実感がなによりも有効だろう、ということを経験的に感じています。そのような体験を連鎖的に積み重ねていった結果、どうなるか、というようなことは目下のところ何も考えておりません。いや、何も考えていないと言ったらさすがに嘘になるでしょうけれども、その結果はそれほど重要なことではないのです。


ただひとつだけ、書く、ということにそれなりの意味があるのだとしたら……。うーん、これは全然結論もなにも出てないし、ほんとかどうかはわかりませんが、やはりどうして、古来から多くの人は文字を書き残してきたのだろう、ということは考えていて、あるいは逆に、なぜソクラテスは書物を残さなかったのだろう、ということを考えたりもする、けれども、書くという行為がある体験の蓄積、つまり事実の積み重ねというものを、なんらかの形で残す、ということはやはり重要な要素だろうとは思うのです。それは自分に対しても、他人に対しても。


他人に対しての言葉は、やはりそのテクストを読むであろう人をある程度意識するべきだろうと考えていますが、いま書いているこの文章はまったくそれを意識していなくて、これも読み返さず校正もせずにアップするつもりでいますが、かといって、ここで書いたものを自分の備忘録としてストックするという意識もなく、ただ自己満足的に、今このパソコンのキーを叩くというよりほとんど滑らせるような感じなのが気持ちいいから書いているという、ただそれだけなのですが、もうこれ以上は内容もないだろうからそろそろやめることにします。でも考えてみればこれは、savくんのブログを読んで書き始めたことなので、その意味にかぎっていえば、他者を意識している、と言うことはできるでしょう。