チェルフィッチュをめぐって


ひさしぶりに路字のメンバーで打ち合わせ。この間、それぞれ忙しかったので、顔を突っつき合わせて話すということができなかったのだけど、やっぱり路字は会ってナンボだなあという気がした。打ち合わせといっても、膨大な雑談とセットになっているわけですけど、それこそが醍醐味というか、直接誌面に反映されなかったとしても、それが作っている側のモチベーションになるし、やっぱりその雑談の蓄積がどっかに活きてきたりするわけで。ちなみに、仲俣さんが最近ブログに書いている内容に関しては違和感をおぼえる部分もあったので(とくにチェルフィッチュをめぐって!)、それについてもとっくりと話をできたのが個人的には良かったです*1。単に、やっぱりリアルがいいよね、みたいな話にはしたくないですけど、ブログでは限界があるというか、言葉、というよりも書き言葉だな、文語、それがあたかも論理的に構成されているかのように信じられていた時代というものはすでに終わっていると私は思っていて、まだ口語には可能性がある、いや、というとエクリチュールの可能性を信じていないのかと言われればそんなことはなくて、ただ言葉には耐用年数というものがやっぱりあるし、たかだか100年ちょっとしか歴史のない我々が使っている日本語の書き言葉というものが、インターネットの急速な普及に対応できたかといえばそれはあやしくて、やっぱり事実的に呑み込まれていって、そのまま惰性で私たちが使っている(読んでいる)部分っていうのもあると思う。


路字は、ある意味ではA3一枚という紙を使ってそうした惰性の流れに一石を投じている*2ようなところがあるけれど、だからといってやっぱり紙媒体が素晴らしいとか、ネットはダメとか、そういうことを言うつもりはまったくない。ちょうど「広告批評」の休刊が「ネット時代の広告の多様性に対応しきれなくて」みたいなことを理由にしていたけれど、これから先、紙媒体への大きなリバウンドということもありえないだろう。ただ、できるとしたらせいぜい「小さなメディア」をつくるというだけのことであって、それはとりあえず私のいるこの足下からもういっかい言葉を立ち上げることで、我々が惰性で使っているところの日本語、ひいてはそこに流れ込んでいる空気を読めとかその他さまざまな自己規制であるとか、まあ言ってしまえば「靖国」の自主的な上映規制もそうですよ、そういう流れ込んでいるものを突き放したり、そっから身を引きはがしたり、というようなことができるかもしれないと思って、路字をやっているところがある。いや、正確に言えば路字はそうしたものをコンセプチュアルに狙ってやっているわけではないのだけれど、結果的に、つくりながら、あるいはつくってみて、そういうことを思うのだ。で、それはチェルフィッチュがやっていることとも一脈通じているのではないかという気が私はする。ただその「一脈」というのは決して共感であるとか、単なる同世代、同時代、といったくくりを許すようなものではなくて、もっとなにか、たとえば岡田利規さんなら岡田さんなりにこれまで時間をかけて培ってきたその連続性のようなもの、それと、まあ比べるのはおこがましいかもしれませんが、私が今まで生きてきてその中でたまたま路字に遭遇して今そういうことをやっている、というところで、なにか交差するものはあるのかなという気はするのです。もちろん、アウトプットの形式も内容もまったく違うから、同じですよね、みたいな話にはならないんですけど。


とりあえず、チェルフィッチュの「フリータイム」を観たときの感想を奔屋ブログに書いているのでいちおう再リンクを貼っておきます。
http://d.hatena.ne.jp/hon-ya/20080310

*1:あ、この件については仲俣さんの最新エントリーを参照してください。

*2:最初ここ「流れに棹さす」なんて書いてたんですけど、それって完璧に誤用でしたね。いや、お恥ずかしい。指摘してくれた友よありがとう。