モチベーションと「ご縁」について


nordicmanさんがブログでとある発言(エクス・ポ3のボーナストラックに記載)に言及してくれたので、ぼくなりに応答したいと思います(例によって支離滅裂ですがね)。奇しくも、nordicmanさんのエントリーの最後のほうは「私性」がテーマになっていますが、ぼくが4月の前半にうだうだとこのブログに書いていたのも、けっきょくは「私」をめぐる話だったので、そのあたりを手がかりに話をしてみたいと思います。


どうも、「好き/嫌い」の論理も、「やりたい/やりたくない」の論理も、現在の「私」という価値観の枠内での判断のような気がしてしまうんですよね。そういうのは日替わりだし、あやふやだし、どうにも信用ならないんです、ぼくは。「好き!」とか「やりたい!」とかポジティブな方向性で出すぶんには、そこに愛を感じるし愛が愛を呼ぶ、みたいなセンセーションも巻き起こしたりするから歓迎なんですけど、「嫌い」とか「やりたくない」とか、そういうネガティブな物言いに接するとちょっと残念な気持ちになってしまいます。


だからほんとは、「好き/嫌い」とか「やりたい/やりたくない」といった「私」の判断基準を無効にするようなより強固なシステムとかが作れたらいいのかもしれませんけど、大きな会社に所属するとかではなくて、小さなメディア界隈でやってくとなると、なかなかそういうわけにもいきません。だからとりあえずぼくが考えているのは、「好き/嫌い」とか「やりたい/やりたくない」といった「私」の判断よりも、いやおうなしに関わったものが動き出している以上、その関わったもの(媒体)の意志みたいなものに主導権を譲り渡す、みたいなことがあってもいいかなと。同じボーナストラックで戸塚泰雄さんが言ってた「ご縁」みたいなものを大事にするってことに、近いところはあるかもしれません。


とはいえ、これはともすれば運命論になってしまって、そうすると個人の意志は問題にならないのか、みたいな話になりがちなんですけど、そういうことでもなくて、「ご縁」っていうのは、運命の意図みたいなものに導かれつつ、でも導かれていくのはやっぱり「私」ですよね。そこで「私」が、それまで観たこともなかったような新たな価値観に触れて「私」というものの枠組みを変容させながら、知識や情報や技術を蓄積して、その運命の糸であるところの器(媒体)のようなものに何かを還元できるような存在というか、その一部となって、他の人とも関わる、というようなことが、あると思うんです。


もっというと、ぼくが考える「社会人」のイメージって、そういうものなんですよ。というか、そういうものであってほしいんです。みんな一律に会社の歯車で、とかそういうんじゃないくて、それぞれに「ご縁」を辿っていった結果、たまたま何者かになった人たちが構成しているのが「社会」ではないかと。そういう、それぞれがそれぞれの持ち場で頑張っている、その集積が「社会」であるというイメージがぼくには昔からあって、ようやく最近この歳になって、それがある程度実現しつつあるのかなー、という感じが、しなくもないです。だから逆にいうと、会社に所属しようが、フリーランスであろうがなんでもいいから、それぞれに頑張ろうぜ!という気持ちも、やっぱりあったりするんです。とくにものを作る人たち。愛とか熱意とか(静かな熱意でいいんだけど)は、やっぱり持ってようよ。持ち続けようよ。



それぞれの持ち場で頑張るというのは、ほんとに、その人なりにいろんなやり方があるはずで、それは豆腐屋で豆腐を買う、でもいいし、店をつくるでもいいし、もしかしたらブログを書くでもいいし、ほんとなんでもいい。べつにそれが、いわゆる普通の意味での「社会貢献」である必要なんかなくて、一見してものすごく個人的なものにように見えることでも、場合によっては自分の利益とか野望とかしか考えてなくても、実は「私性」なんか突き抜けて、いわゆる普通の意味での「社会」なんかもくそくらえで、気づいたらその先にいってしまいましたー、なんてことが、あると思うんですよね。そして実際、そういう動きが見え始めてきたなと。そういう手応えも、少しはある、のです。