崖の上のポニョ


忙しすぎてそれどころじゃないんですけど、「崖の上のポニョ」を観てきました。もともとツッコミどころは満載なのだし、細かいことは言いません。でもやっぱり思わざるをえなかったのは、ポニョには「父」も「母」も要らなかったんじゃないの、ってことでした。フジモトが「父」っていうのはちょっと面白いけど、「あの人」を「母」にしてしまうと完全にお決まりのパターンに……。それならば「父」や「母」といった関係性のとれない、得体の知れない存在として彼らを描いたほうが、物語がもっと面白く転がったと思うし、もっと「愛」や「勇気」に近づけたのじゃないでしょうか。前半は表情から何から二元論的解釈を拒むようなセリフまわしまで含めて、流動的な世界観をものすごく丁寧につくりこんでいる感じがしただけに、もったいない気がします。宗介の動きとか周りとの距離の取り方とかすごく面白かったので、あのディテイルの作り込みを最後までやってほしかった。さらに言えば、「世界の滅亡の危機」も全然要らなかったと思います。「海」を主役にしたくて、そしてその「海」の豊かさを本気で信じているのであれば、あんなふうに物語を閉じる必要もまったくないし、愛を描くならば世界のためとかではなくて、純粋に目の前の人間に対する愛だけで充分だという気がする。


物語を簡単な図式に当てはめるようにしたのは、子供たちにわかりやすく受け入れられるため、というエクスキューズがつくのかもしれないけど、僕がもし子供だったら、と考えてみると、もっとよくわからない、得体の知れない世界が広がっていたほうが圧倒的に驚くと思うし、それは単に奇異なものを求めるってことだけじゃなくて、そういう不可解なもののほうが後々まで心に残るものではないでしょうか。特に感受性の鋭い時こそそうで、小さい頃に読んだ、いくつかのミステリー(ルパンとか乱歩とか)やファンタジーの面白さは、明らかに解釈不能な世界観や人物がそこにあって、それらが解釈不能であるがゆえに、そのまま”そのもの”として記憶せざるをえなかった、というところにあったようにも思うのです。ポニョは、たしかに可愛いし、なんとなくその語感からしても癒しの象徴としてそれなりに長く記憶されるかもしれないけれど(映画館を出てしばらくは僕もぽにょぽにょ歌ってたけど)、子供たちにとって、はたしてそれ以上の存在になりうるだろうか? 同じ宮崎アニメでいえば、トトロや巨神兵といった異形のものたちをはじめ、ユパ様やドーラおばさん、ポルコ・ロッソといったヒロイックな人物はもちろん、風の谷の爺様連中やシータの手伝いを争ってする海賊一味といったある意味平凡な人たちのことまで僕が記憶しているのは、やっぱり彼らがメタファーに回収されることなく”そのもの(=ノイズ?)”として存在できるような世界がそこにあったからだと思います。


この作品だったら、例えばあの赤い魚の群れが可愛いとか、津波が怖かったとか、船の灯がきれいだったとか、お月さんが大きかったとか、そうした記憶が後々まで残り、そして何かの拍子に蘇る、というような形で、子供たちのそれなりに長い人生を伴走してくれるのじゃないでしょうか。子供は、大人たちが考えるようなわかりやすいストーリーを必ずしも求めているとはかぎらないと思います。(結局子供たちがもっとも狂喜するのは、あの歌に対してだと思う。)