サンプル「家族の肖像」


傑作と評判のサンプル「家族の肖像」を観てきました。劇を観た後に、ドラマターグ・演出助手の野村政之さんが編集している「家族の肖像」ブログも全て読みました(9月1日現在公開分)。ドラマターグという職業について私は詳しく知りませんが、どうやら演出家の相談役のようなポジションらしいです。野村さん自身、インタビューの中で自分のことを「よくわからない存在」というふうに仰っていますが、こういう「よくわからない存在」こそが何かを生み出すのではないかということを、最近はよく思ったりもします。




さて劇についてですが、まずは劇場であるアトリエヘリコプターについて書かなくてはなりません。JR大崎駅を降りて、ビルの谷間を歩いて目黒川を渡って、一瞬「都市の中の郊外」的な風景が見えたその先に不思議な古び方をした廃屋のような建物が立ち現れて、この光景は見事だと圧倒されていたらそれがまさにアトリエヘリコプターでした。最終日の当日券ということでキャンセル待ちになったので、ロビーにあるソファーで待っていたのですが、そのソファーがどこから持ってきたのか実にふかふかな代物で、ぜひ我が家にほしい(置くスペースがないけど)と思ったくらい、座り心地がよかったです。


肝心の劇空間は、中央に舞台があってそれをコロシアムふうに観客がぐるりと2階席から取り巻いて観るふうになっており、よく近未来SFに登場するような、中でモンスターと闘わされてそれを見せ物にしてセレブたちが野次を飛ばすというような、ああいう空間になっています。ある意味、悪趣味です。ヘリコプター、という名称も手伝って、半ば宙に浮いているような気持ちになるのですが、それも含めて劇そのものの構図についてはsound-and-vison氏がブログで詳しく解説しているので、そちらをご覧ください。




松井周演出の作品は初めて観た、と思い込んでいたのですが、どこかでこの感じ(ゴミと家族と性的不能といったモチーフ)は観たことあるなと思ったら、青年団若手自主企画の「通過」を数年前にアゴラで観てました。あそこにも強い「怒り」があって、たしかトリックスター的な人物(今回引きこもりの中年役をやった古館寛治さんではなかったかと思う)が舞台をめちゃめちゃにしてそこでいろいろなものが一気に暴露される、というような話だった印象があるのですが、今回もそのような暴露はたしかにあったと思います。とはいえ、今回の「家族の肖像」におけるそれは「ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によってぼくは廃人であるそうだ」(吉本隆明)的な決定的な暴露ではなくて、むしろ暴露したって世界は何も変わらないのだという諦念のようなものがすでにそこにあるような気がしてなりません。数年前であれば、この諦念はただちに絶望へと導かれるものであったかもしれないし、その反動として無理矢理にでも希望を捏造するようなことしかできなかったかもしれない。実際、僕が当時の演劇にあまり親和的になれなかったのは、そのようなカーニヴァル的な絶望と希望というものから、少し距離を取りたかったようなところがあります。(というのは後追いで考えていることにすぎませんけども)


しかし今回の「家族の肖像」においては、あらゆる結論は先送りにされています。「勃った」ものはすぐに「萎む」し、また「勃つ」かもしれない可能性を含んだまま、羊たちの日常は続きます。彼らはしかし、一概に不幸であるともいえず、引きこもりの40男がウソでも言うように、「幸せ」かもしれないのです。大きな物語への回帰も叶わず、小さな歴史への開き直りも許されない。サバイブしてきたと豪語するフリーターの彼はあまりにも頼りない。店は潰れるかもしれないし、潰れないかもしれない。すべてはおそらく、ほんとうに、どちらでもいいのでしょう。


そしてここには、なんらの希望も提示されなかったし、物悲しい話ではあったけれど、絶望のトーンもありませんでした。しかし正直に告白すれば、私はこの「家族の肖像」を観終わった後に、得体の知れない奇妙な幸福感(ととりあえず呼ぶしかないもの)に包まれたのでした。アトリエヘリコプターの舞台から外へ出るための階段は白壁になっていて、その窓からは陽光が入ってきていました。太陽の光をただちに希望と見なすのはあまりに安直であるとしても、光と闇とが非常に効果的に用いられ、その漆黒の闇の中に「何か」を観た後の私には、それはあまりにも清々しい光でありました。




長くなりましたが、最後に、その闇の中の「何か」について語っておきたいと思います。この劇に登場するさまざまな小ネタは、木村覚さんがブログで指摘しているように、あらゆる類型化をまぬがれないものであり、その意味では既視感に溢れています。おしりをポリポリ掻く妻の姿も、スーパーの値下げを待つ女も、先生の言葉も、店長と万引き女の関係も、「私はからっぽ」という発言も、あの印象深い羊たちがケータイを手にするシーンも、いつかどこかで観たことのある光景であり、その意味では、「私」の記憶とどこかで結びつくものでしょう。しかしおそらく誰にとっても記憶と結びつくということは、逆に言えば、とりもなおさずその記憶がすでに「私」の外部に遍在しているということであり、ありふれたものになりきっているからこそ、ある特定の「私」の内部で専有され結びつく、という代物ではありえません。で、あるがゆえに、ここがものすごく大事なところだと私は思うのですが、この劇が提示する物語に観客が安易に共感することはまったくもって不可能なのです。なぜならば共感とは、「私」の記憶と対象(劇)とが”密かに”結びつく行為なのであって、そこに私的な秘密がない状態では成立しえないからです。


さてそのようにして私的なものですらありえないような様々なサンプル(見本)が断片的に提示されたこの劇舞台において、不意に暗闇がおとずれた時、私たち観客はそこに何を観るのでしょうか。もし、私的な共感が許されるような場であったとしたら、私たちはその闇の中に、過去の記憶から持ち出してきた「私」の何かを投影することができたかもしれません。「私」の家族や恋人や、世話になった先生のことを思い出して、懐かしむこともできたでしょう。あるいは様々な感情を喚起して、その闇の中に投げ込むこともできたでしょう。しかし、他の人がどうだったかわかりませんが、少なくとも私にとっては、この闇はただの闇でした。ただとにかく真っ暗であるということ。絶望や希望について語り出すその前に、ただ見つめる/佇むという行為があってもいいのではないか。それしかできない、ということがあるのではないか。




サンプルという劇団は明らかにその出自からいって、青年団の(平田オリザの)遺伝子を受け継いだ存在と言えます。そのことは作り手にとっては、もしかしたら意図せざるところであるかもしれないし、なんともアンヴィヴァレンツな感情をともなうものでもあるかもしれません。しかし今回の役者陣が青年団のベテランたちを迎え入れたものであったことも手伝ってか、単に技巧的な問題に還元できない、ある種の成熟をこの劇に感じたことはたしかです。それはよくも悪くも、観る者を安心させる(保守的という意味ではなく)。そしてとりあえず結論を保留して現時点での印象だけを言えば、そのような成熟と、あの何もともなわない闇とがこの世界に同時に存在するということ――それはどこかの誰かの孤独にとっての、ささやかな救い(補助線)となるような気がしました。