一人歩きする言葉


青山あゆみ嬢が「手紙」の話を書いていたからか、ふっと思い当たったのだけど、いまテルテルポーズ2のためにいろんな人に原稿を依頼していて、その動機のひとつに「その人が何を考えているか知りたい」ということがある。それは遠方に離れている友の場合「その人の近況を知りたい」といった感情に近いものがあって、そういう意味では原稿依頼も、原稿を執筆してもらうことも、「手紙」のやりとりに近いものがある。


とはいえ一方で思うのは、やはりたとえ小さくても「メディア」である以上、それは二者関係の中でのコミュニケーションに留まるものではないく、常に第三者の目があるし、だからこそ面白いのだ。しかし、では純粋な(話し言葉における)語り手と聞き手といった関係を超えた不特定多数の第三者が介入してくるその時、いったい言葉はどこに向けて発せられているのだろうか。


……この件に関して取沙汰されている様々な議論を省いて、一気に結論だけを直観的に言うと、言葉はやはりひとりでに歩くのだ、と思う。誰か特定の人に宛てられたものであっても、自己表現欲求に突き動かされたものであっても、読者の目を過剰に意識したものであっても、どのみち言葉は一人歩きする。つまり(書き言葉における)書き手でも読者でもない「言葉自身」にとってそこで問題になるのは、言葉がひとりでに歩いていけるだけの体力や魔力を、その身に帯びることができるかどうかだけなのだ。


そこに強度があるかどうか。もちろん、ある程度の勢いや流れがあってこそ言葉は生まれるのだが、とはいえその書き手がどれだけ手を加えているかということも、言葉の強度に関わってくる。何回手を入れたか、といった回数は問題ではない。ただ、書き手自身の意識が高いかどうかは文章をみれば一目瞭然で、その意識が薄弱な場合はやはり文章も弱く、精彩を欠き、秩序を欠き、だらしなくなる。意識するというのは必ずしも完全にコントロールしきるということではなく、ある種の弛みも含めて言葉が自律的に走ることのできるような状態を生み出す(維持する)ことである。そうした意識がなければ、言葉は単にあらぬ方向に一人歩きするだけで、結局どこにも着地できない。




なるほどそう考えてみれば(と勝手に合点する方向で、つまりは書き手の「責任」といった問題を捨象して話を進めてしまえば)、言葉自身にとって「手紙」というのはコミュニケーションのツールなんかではなくて、飛躍してどこかに着地するための、その移動の手段にすぎないのではないか、とも思う。もちろん「メディア」も、言葉が一人歩きするための移動手段である。


紙媒体が今もってなくならないのは、言葉自身が一人歩きする姿を、より明確な形で見たいと思う人たちがまだいるということ。そしてそうした言葉自身の意志のようなものが、まだどこかで信じられているということなのかもしれない。


言葉の移動手段としてみれば、書かれた文章はつねに現実世界とは別の宇宙*1をもったフィクションとなる。言葉はその時、誰か(語り手)が、何かを、誰か(聞き手)に対して伝えるといった原初的なコミュニケーションのツールとしての機能を、完全に超えたものになる。

*1:といった言葉は使いたくないが他に適した言葉を今は思いあたらない