笠智衆の誘惑について


なんか、『娘・妻・母』のレビューで書いたようなことを書いていてはダメだ、まったくダメだ、という気がする。古い映画を観て、そのさらりとしたレビューを書き、それなりに仕事もして、本を読んで、人に会って、という生活がある時に、しかしそこには埋めがたい何かがあるのであって、その埋めがたい何かの部分というものが、おそらくは人を死なせたり、逃げさせたり、場合によっては恋させたりするのであろう、つまりは狂わせるのであろう、ということはなんとなく経験的にわかる。それは日常生活においてはひとまず不問に付したいというか、できれば(恋愛をのぞいては? あるいは恋愛も含めて?)避けて通りたい領域には違いないのだが、とはいえ、その埋めがたい何かをまったく放置しっぱなしというのでは、何かそれを取り巻くその他すべてがまったくもって空虚なものに思えてきてしまうから、やはりその埋めがたい何かに対して時にはそれなりのアプローチを試みるしかないのだろう、ということは思う。そのアプローチはことごとく失敗に終わるだろうが、しかしそこに近づくということだけでも、単なるその場しのぎの欲求解消以上の充実した慰めが、いや、慰め以上の何かが、得られたりするのである。いくら映画を観たところで、その部分に届くように観たり書いたりするのでなければ、「観た」というアリバイが積み重なっていくだけでなんの意味もありはしない。


娘・妻・母』でいえばやっぱり恐怖なのは、笠智衆がいかにも頼りなさそうに乳母車を引いて、それをほれほれーとあやしているところで、しかもそれをパロディとかではなくて真剣に描いているところがすごい。強いて言うなら、問題は、年老いた笠智衆が子供を「高い高い」する時のあの身体の微妙なラインなのだ。それが三益愛子を誘惑して、ついに彼女を駆け寄らせるのだから。