flexibleな小説のためのささやかな拒絶

ただひとつの小さな望みは、これが小説という曖昧で否定的な形式を多少歪めるか押しひろげるかして自分の場所を確保する可能性にかかっている。だからこれは明らかに、ある堅固な小説概念の破壊を仕事とした反小説でもない。すでに破壊という形式だけが唯一の形式になっているときに、《anti-》という接頭辞に意味をみいだすことはできない。とはいっても、一方ではわたしたちはたしかにある既成の小説のパターンというものをもっていて、これはもっとも安心して使える万能容器のようなものである。だがよく調べてみると、それは予想外にflexibilityを欠き、用途も限られていて、細かく仕切られて便利にみえながらじつはそうでないトランクのようなものであることがわかる。その窮屈な仕切りとはミュトス(話の筋)の要請からくるものであって、たとえば一組の男女がでてくればかれらは愛しあったり別れたりしなければならないのだとすると、このような要求によって小説は認識の可能性を不当に制限することになる。わたしはあるひとから、トマス・マンが『トニオ・クレーゲル』のもっともロマネスクな展開が予想される二つの箇所で、「だがこの人生ではこんなことはけっしておこらないのだ」と二度にわたっていっていることを注意してもらったが、小説をflexibleにするためにはこのようなささやかな拒絶はつねに必要であろう。

   倉橋由美子「ヴァージニア」(1968)