これまでのまとめ。


今日、所沢で中野成樹+フランケンズを観てきて、それでいちおう観劇シーズンもひとくぎりというか、ここらでひとつ自分なりにまとめておかないと先にいけない感じがするので、いったんここで「これまでのまとめ」を書きます。これは完全に自分のための文章で、他人に読まれうるものである、ということを、そもそも分量や文体からしてほとんど気にしていません。大体これだけ長く書けばまず誰も読まないでしょう。しかしこれをいったん自分の外部に外付けしてしまわないと、気が狂いそうなのです。だから自慰行為との誹りを受けることを覚悟で、いったんここにアップします。(これは非公開の日記ではダメです)


最近、いろいろと演劇を観てきました。自分が観ているのはいわゆる「小劇場演劇」と呼ばれるものなのだろうけど、とある人が前に言ってたみたいに、この言葉自体をアップデートしないといけないのかもしれません。「小劇場」という呼び方は、やっぱりその先に「中」や「大」を想定しているところがあるけれど、今、演劇の現場で起きていることは、そうした肥大化・メジャー化のベクトルとは異なるものであるように思うので。


それはいいとして、今年の観劇で記憶しているものを列挙してみると、五反田団新年工場見学会(ハイバイなど)、EKKKYO-!、三条会、快快(インコ)、青年団、地点、岩渕貞太、時間堂WIP、二騎の会(ガールズバージョン含む)、メゾンダールボネマ&ニードカンパニー、モモンガ・コンプレックス、マームとジプシー、五反田団高校生、マレビトの会(NHKバージョン)、チェルフィッチュ(STバージョン)、岡崎藝術座、快快(Y時)、チェルフィッチュ(横美バージョン)、松井周ハコブネ、東京デスロック、杉原邦生、時間堂、ままごと、鳥公園、ダンスボックス、中野成樹&フランケンズ……となっていて、これは観劇中毒者からすれば普通というか少ない部類でしょうが、一般人からすると少々多すぎます。観劇はとても体力を使います。実際、その場に行かなければならないし、正直、金銭的にもキツいものがあります。交通費もかかる。さらに稽古やゲネ(リハーサル)を観たり、演劇関係のワークショップに顔出したり、演劇関係者と飲んだり話したり麻雀打ったり取材したり、というこの三ヶ月でした。まあ去年の秋くらいからペースが上がってるわけですけど。


さて、ではなぜ自分は演劇を観るのか? と不毛に問いかけてみます。もちろん好きだから、というのが第一の理由だけど、それだけで簡単に収まらないものがある。例えばそれは、宣伝だったりもしました。馴染みのあるカンパニーや、まだ見ぬ才能を持ったカンパニーをもっと多くの人に知ってほしい、という気持ちから、それを観に行って、面白ければ「面白い」とツイッターやブログで書いたり口コミしたりする、ということが、ある時期までひとつのモチベーションとしてあったことはたしかです。世の中には言説の配置というものがある、というのが自分の基本的な考え方としてあるので(政治学科出身ですから)、良い作品が良い評価を受けるとはかぎらない、それならば少しでもその言葉=評判の不均衡のようなものにアプローチすることでその偏りのバランスを変えたいという気持ちがありました。今もって、完全に消えたわけではありません。ところがそれも、次第にどうでもよくなってきたのはたしかです。それよりも、自分が作品から受け取るものに対して、率直(正直)であるということが自分の中で重大なことになってきました。


その話をする前にもうひとつ整理しておきたいのは、自分は劇評をどこかの媒体に書いているわけではないし、演劇についての長い批評を著しているわけでもないということです。なので職業としては、編集者として「エクス・ポ」などの取材を通して演劇に関わっているにすぎないのですが、「エクス・ポ」にしても演劇の専門誌というわけではないので、正直、別にそこまで演劇を観なくても編集作業的には問題ないと思います。情報を右から左に流せばそれでもいちおう何かしらの雑誌っぽいものは出来上がるわけです。でもそれではダメだ、という直感があって、おそらくは演劇というものをフック(足がかり)にして、今の時代および過去の遺産といったもののすべてに立ち向かっていくということが、自分にとっても、「エクス・ポ」の編集方針にとっても重要なことであるという気がしてます。実際、「エクス・ポ」の編集会議は、ほとんどが演劇に関する雑談で埋められているのですから。でもそういった理由は後付にすぎません。


そこで先ほどの話に戻ると、作品から受け取るものに対して率直(正直)であるということが、今自分が、この時代というか世界に対して対峙するにあたっての基本条件であるような気がしてきています。だから、ある作品に対して、褒めたり貶したり、宣伝のために煽ったりする、ということは、まったくの無駄とは言いませんが、二の次です。轟々とツイッターなどで渦巻いている毀誉褒貶の嵐の中に、自分のつぶやきを忍び込ませていくことは、無駄ではないけども、かなりどうでもいい。むしろ今自分にとって必要なのは、毀誉褒貶のモード(言語状況)から距離をとって、作品、あるいは作家と対峙することである、という気がしてます。


まあでも、先走るのはやめておきます。可能性を潰す必要も特にないからです。さすがにペースは少し落としたいですけど、これからもいろいろお芝居を観に行くと思うし、それを淡々と続けていくだけです。そこで、とりあえず以下に、いま思い出すところで印象に残ったことだけをメモしておきたいと思います。本当は、きちんとした劇評として書いたほうがいい部分もあるけど、今とてもその余裕がないし、まともに推敲することさえできないけど、とはいえ何か書いておかないと先に進めそうにもないので、走り書きするのをお許しください。




まずなにより圧倒的だったのはチェルフィッチュと東京デスロックで、別に順位をつけるという意図はないけど、俳優の存在感とそれを際だたせる演出に関しては群を抜いていた。チェルフィッチュの『わたしたちは無傷な別人であるのか?』に関しては少し前にも書いたので詳しくは書かないけど、これまでとは違って新しいことにチャレンジし、それに成功を収めたという手応えをひしひしと感じます。なので「チェルフィッチュ」という名前だけで先入観で決めてかかってどうこう評価してる(つもりになってる)人はもったいないというか、ご愁傷様です、としか言いようがありません。基本的に、日本人(東京人)の現在の感想なり、評論なりといったモードは、「ゴダールとか=難解なもの」として受容した時点で相当終わってる、ということは自覚しておいたほうがよろしいかと思います。まあ、至極当然のようにして「劇評」なるものが成立すると信じている脳天気でシアワセな方々には、あなたが言葉を操っているのではなく、言葉があなたを操っているのだ、と教えてあげてもまったくの無駄でしょう。もはや、目の前にあるものを観ることすらできなくなっているわけですから。まあでも、今書いたことはチェルフィッチュとは関係のないことでした。


東京デスロックの『演劇LOVE 横浜バージョン』は、ものすごく興奮しました。新規メンバーも含めて、俳優の力が凄まじかった。(そういえばハイバイもナカフラも、とても良い新規メンバーを獲得しているけど。)デスロックの俳優の立ち方のようなものは、チェルフィッチュのそれともまた全然異質ですが、立ってるだけで凄い。『演劇LOVE』という作品は最初は観たら驚くのだ、という意見もいただきましたけど、自分の場合、初めて観たから驚いた、ということとは別の興奮があったように感じています。繊細だが大胆な照明も、爆音も良かったし。何より、愚直なまでのLOVEというか。凄く圧倒されました。


立ち方という点でいうと、地点もヤバかった。あれはなんだ? 何年か前に観てた時、地点はやはり話法が独特で、その名残は確実にあったけど今やそれが話法のレベルに留まってない。全然わけもわからず涙させられた。要するに、現代口語演劇というものへのカウンターというか超克なるものが、最初は話法から取り組まれた、として、それが今では俳優の立ち方や佇まいや迫力のようなところにまで浸透してきてるのじゃないか。そんな仮説を立ててみたくなります。あとこれはマレビトの会もそうですが、京都という場所で作品を作っていくことのポテンシャルと、そこから逆照射して、東京という場所の不思議を思ったりもしました。


これらのカンパニーの立ち方に匹敵しようとしているのが岡崎藝術座かと思うけど、ただ彼(神里雄大)の場合は野蛮というか大胆というか思い切りがいいというかわけのわからない部分があって、それは他の誰も真似できないというか、突出しているとも感じる。てゆうか、めちゃめちゃ好きなので、これが3年とか5年とか経ったら果たしてどんなふうに化けているだろうか。恐ろしい。しかし『リズム三兄妹』面白かった。涙出た。いろんな意味で。なんかいろんな体液が出てしまった感じ。ありえないところから。


松井周演出の『ハコブネ』もスケールが大きかった。やはり松井さんは相当ヘンというかヤバい。この人と同時代に生きられた、ということに感動したりもした。この歴史を扱う手つきは『伝記』あたりからも繋がってくるものだと思います。それに対して歴史の扱い方が浅い、という意見もあったかと思うし、たしかに炭坑の歴史のようなものは、もっと実際はとても複雑で、地元の人から見ても物足りない部分もあるかもしれません。しかしフィクションを作るということは史実をそこに再現前するということを目的とするものではないし、手段としてもそうあらねばならない必要はないので、別の様々なファクターを取り入れつつ、スケールのどでかいものをどかーんと池袋のあうるすぽっとで見せつけてくれただけで自分としては大満足です。そこはあの舞台美術の功績も大きかったし、青年団の実力派俳優の力量も大きい。北九州の俳優たちも印象的だったけど、「静かな演劇」っぽいところに関していえば、やはり東京の俳優たちのほうに一日の長がある気がどうしてもしました。それは自分の目が東京ナイズされすぎている、ということかもしれないけど。とはいえ、いわゆる「演劇くささ」のようなものと闘ってきた痕跡というものが東京には否応なしにあるとも思うのです。


快快の『Y時のはなし』は完成度が非常に高くて驚きました。作品としては『インコは黒猫を探す』のほうがスケールとしても大きく、チャレンジもしていて、まさに産みの苦しみを感じたけど、いっぽうミニマムな世界の中で人形劇をやりながら、しかし「人間」をいろんな意味で見せてくれた『Y時のはなし』は、それはそれでひとつの頂点を形成する傑作だと思います。役者もみんな凄い良かったんじゃないか。


あと、もう全部は書けないので、ブログに書かなかったものでいうと、モモンガ・コンプレックスはEKKKYO-!以降、なんだか自信に満ちていてちょっと良い意味でヤバいんじゃないかって気がしてます。ブレーク前夜という雰囲気もある(とはいえ、いったいどこに向けてブレークするのか皆目検討つかないけど)。自信をつけちゃったらコンプレックスじゃないんじゃないの?というツッコミもアリでしょうが、まあいいんじゃないの、面白いから、みたいな。ぜひ今後もいろんな場所で公演してほしいです。ちなみにこのモモンガ・コンプレックスの白神ももこと、岡崎藝術座の神里雄大がタッグを組んだユニット鰰[hatahata]は要注目で、どうなるのか全然謎。だけど去年の暮れだったか、築地まで夜通し歩くという謎のイベントをやった時の意味の分からない興奮、築地の労働者たちの喧噪の中に溶け込んで飲まれてしまったあの情熱……。アレが本公演にも侵入してきたとしたら絶対に面白くなる。


そして偶然観た、マームとジプシーと、鳥公園。この2つは想定外の拾いものだった。こうやって頻度上げて観劇していなかったら遭遇しなかった気もするので、それだけでも良かったというか、未知なるものと遭遇できた喜びを感じた。マームとジプシーに関しては、演出法も、戯曲もとても面白くて、『たゆたう、もえる』の最終日の熱気には非常に感動しました。物語はよくある家族もの、といえばそうで、ハイバイの『て』にも似ているといえばそうだけど、『たゆたう、もえる』のある意味での破綻っぷりが、単なる戯曲および演出の瑕疵に過ぎないのか、それともさらなる野蛮さと才能の萌芽であるのか、そこは今後の公演を観て確かめたいと思います。……とか冷静に書いてみたけど本心をいうと、全然斜に構えて判別してやろうというつもりは毛頭なくて、ただもう楽しみ。5月の末のSTスポットの新作にはチェルに黄色い服の女の子役で出てた青柳いづみと、あの人気急上昇中の怪優・召田実子も登場するらしいので、もう楽しみで仕方がないのです。


鳥公園は、乞局の西尾佳織が作・演出をするユニットで、メンバーは西尾さんと俳優の森すみれ。まず戯曲が本当に素晴らしい。これも家族ものだけど、女性の目線で換骨奪胎されて再構築されたというか、そこにはやわらかさと、狂気と、しなやかな強さとがあって、まるで澄んだ空気の中で鳥の声を聴いているような軽快さと、暗い井戸の底を覗き込んでいるような重厚さとが同居しており、しかも凄くユーモアもあって、いったいこんな才能を持った人がまだいたのかと、心底驚いたのであります。あと演出も凄い。全然平板じゃない。幾つかのパターンを持っていて、それらが変調する。ある意味、整合性がないというか、必ずしもすべてがきちんと回収されてオチに向かうわけではないので、もしかしたら「わけわかんない」という印象をいたずらに観客に与えてしまうかもしれないけど、まあそれもいいじゃないの、というか、まあ途中で登場する「徹子」はとりあえず必見です。でも実は、静かなシーンの演出の丁寧さとか、その時の俳優の演技とか、あとそもそも、ああいう場所を公演の場として選んでしまうあたりのセンスとか、あと音楽。なんか全体的に時代を超越していて、良い意味でアナクロニスティックで、しかも血の匂いがするのだよな。ともかく、5月にリーディングがあって9月に本公演があるらしく、世の中の毀誉褒貶とかどうでもいいので、マイペースで作品を作り続けてほしいです。





さてここまでだらだらと書いてみたけども、「まとめ」なのに全然まとまってない上に、書き洩らしているもののほうが大きいことに気づく。まあしかし、今日観た中野成樹+フランケンズ『スピードの中身』のキャッチコピーにならって言いますが、「疲れてますが先に進みます。」


ひとつ朧気に思うのは、以前にもここに書いたけど、誰とどんなふうに生きていくのか、ということ。もうね、いいんですよ「情報」なんて。要らない。はっきり言うけど。いやもちろん、最低限の情報は必要。公演情報とか。だし、仕事柄、なにげにいろんな情報を集めてます。でもそのうえで、その先に必要なのは、クリティカルに何かを繋ぐことだ、という感触。そこまではわかる。今。


近いうちに、いろんなものがクラッシュする。というかもう壊れ始めてる。大洪水がやってくる。じゃあその先どうするの、というところで、周囲の顔色を窺って、どの船に乗るか、うまくやってやろうか、と考えている人もいるだろうし、それはそれで、食うためには仕方ないかもしれない。それもひとつの才覚です。けど、自分はとりあえずオンボロでもいいから船(筏)を作るか、それか、信頼できる船頭のいる船にえいやっと飛び乗って、ただひたすら信じるところを頼りに船を渡り歩く……そういうことを愚直に続けていくしかない。それか宇宙まで行っちゃうか。あるいは、くたばるか。


でもまだ、くたばれないんだよね。全然。すげー、元気になってるもん。有り余っている。このエネルギーどうしてくれんの、っていう。とりあえず爆発とかしてみたい。



 
 

スイングバイのこと。


昨夜はこまばアゴラ劇場で、ままごとの『スイングバイ』(2日目)を観た。なんか、すごく良かった。「普通の人」をこんなふうに照らせる作家がいることに、勇気をもらったというか、うれしい感じがした。いい作家だし、俳優やスタッフも含めて、いいチームだなと思った。


まだこれから観る人がたくさんいると思うので、以下は、ストーリーや舞台装置や俳優についてなど、具体的なことはあまり語らない。相当な印象論になるけども、今感じていることを書いておきたい。

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調整中。


昨日は近くの公園で昼間、噴水から流れる水をぼけーっと見ていた。平穏な公園だ。朝、偶然見た占いで「今日は一日手応えを感じられない日でしょう」といわれたのでもうどうせなら休み気味にしようと心に決めた。二日酔いもあった。それで朝風呂に入って、公園に行った。醜い顔の女がマスクをして帽子を目深に被って急ぎ足で歩いてた。人目を避けるようにして歩く、その姿が印象に残った。


夜は新宿の、美味しい餃子の店でご馳走になり、紹興酒を呑んだ。強度と距離感の問題。何かに荷担すること、コミットメントすることは実は簡単で、そこでなし崩しに依存的な、ナアナアな関係に陥らないように、あくまでひとりで立つこと。外部でありつづけること。


言葉が足りてない。単に耳障りのよい褒め言葉でもなく、斜に構えた目から生まれる批判の言葉でもなく、目の前で繰り広げられるものとの距離を保った言葉が欲しい。厳しさと柔らかさの同居したような。煽りも虚言もいらない。だけど、もしも嘘が必要なら、大法螺を吹きたいとも思う。

〈やさしさ〉の闘い。


昨夜、時間堂の『月並みなはなし』(二日目)を観た。プレビュー公演の時とは全然異質な、仮に「演劇の時間」とでも呼びたくなるものが冒頭から立ち上がっていて、感動した。開始三分にして、自分は涙を浮かべていたのである。俳優たちは、一回生きて、死んで、また生まれ変わってそこにいるように見えた。ごく普通の、月並みな人生の中に。


今日、明日で公演は終わる。どこまで膨らむかわからないけど、黒澤世莉さんも、時間堂所属の、あるいは常連の俳優さんたちも、たくさんのものをお客さんにあげて、そのぶんたくさんのものをお客さんからもらうといいなと思う。




以下、少しだけ個人的なことを書きたい。


昨夜は帰り道、〈やさしさ〉の闘い、というフレーズが浮かんだ。それは、大学の時の師匠が書いた本のタイトルでもあって、いま思うと、劇評家の鈴木励滋が、時間堂という存在をぼくに教えてくれた理由(感覚)もわかる気がする。


ぼくとしては、黒澤世莉がもっと性格悪い人になって、衆人に嫌われてもいいくらいの勢いで演出家としても尖って、「時間堂はこういう方法論なのだ!」とバーンと世の中に提示してくれてもいいんじゃないかと思ってる。その一方で、いやいや待てよ、時間堂の周辺に集まってくる人たち、例えば今回の座組を見ると、これは黒澤世莉の中に〈やさしさ〉があるからこそ、生まれたものではないか、とも思ったりする。実際、そういう人たちの存在こそが、彼にとっての創作の動機(源泉)になっているのだろう、という気配もある。


一般論になるけど、作家(アーティスト)というのは因果な存在で、世界を切り取って作品として提示する、その課程において、誰かを傷つけてしまいがちである。それは作家の中にある傷つきやすさのようなものの裏返しでもあって、作品という世界を守るために、時には、他のものを傷つけることも厭わない、という覚悟が、作家には必要なのだと思う。だからもう、作家が性格悪いのはある程度仕方ないことだ、とぼくなんかは割り切っているのだけど(割り切らないと編集者なんてやってられない、という事情もある)、いっぽうそこで、誰かを傷つけることを怖れる作家もごく稀にだがいて、たぶん黒澤世莉は、後者ではないか。大抵そういう人は(演出家も含めた広い意味での)作家には向いていないと思うのだが、にもかかわらず彼を作家たらしめているものがあるとすれば、それは、彼の中に守るべきもの(人)たちがあるからだ。


時間堂をこれまで何作か、少ないながらも観てきて感動するのは、そして可能性を感じるのは、まさにそこに守るべきもの、大切にしているものがある、ということだ。しかも、それを丁寧に扱おうとするハンドメイドの手つきがある。その時間堂の黒澤世莉という作家が、〈やさしさ〉を武器に、誰かを傷つけるのではないやり方で、どういう世界をこれから見せてくれるのか? 個人的にすごく楽しみにしてる。


でも、最後にもう一度言うけど、ぼくは作家という存在は、誰かを傷つけてもいいと思っている。作家だから許される、ということではなく、それは決して許されることではないのだが、許されない、ということを引き受けて生きていくのが作家だとも思っている。でも、答えはひとつではない。



  

根をはれ、幸福になれ。


まる2週間つづいた、家に次々見知らぬ人がやってくる、安部公房のアレみたいな不条理劇がやっと終わった。養生テープが剥がされてやっとフローリングの地肌が見えた。さすがに疲れた。もう籠もりたい、というわけにもいかないけど、なるだけ籠もる。そして日常を組み立てたい。


こないだとある人がブログに書いてた、部屋の中が汚い男の話が気にかかってて、なんかそれわかる。というのは、自分の中にもかつて多分にそういうところがあったからで、それは生活の底が抜けてるというか、だからどうしようもなくダメなのだ、と自覚はしていた。どんなに活発に活動しててもそれではダメだ。「根をはれ、幸福になれ」とそのブログの主は書いた。たぶん、どこから手を付けていいかわからないんだ、というのは甘えで、ひとつひとつ、できるとこから、日常生活を整えていくのが大切だと、今は思う。


引っ越したら、そんなふうに生きていこうって決めてた。

死守せよ、だが軽やかに手放せ。


昨日の時間堂『月並みなはなし』のプレビュー公演でもらった当日パンフを、一夜明けて朝、熟読する。手にすれば一目瞭然の、再々演ならではの仕掛けになっていて、演出家・戯曲家の黒澤世莉が、この『月並みなはなし』という作品を大切に扱ってきたことがわかるし、実際、非常によくできた素晴らしい戯曲である。今夜から座・高円寺2で、3月14日のホワイトデーまで公演中。本番も観に行きます。ひとりでも、デートでも、観に行くといいと思う。下にいろいろ書いてあるけど、普通に、いや普通に、っていうのも変だけど、というかこの作品にとっての肝になる言葉だけど、普通に楽しめる作品だと思います。
http://www.jikando.com/




今回、時間堂がやろうとしてること(のひとつ)にとって、お客さんが目の前にいる、ということは、とても大きなことなのだと思う。昨夜のプレビューで、時間堂とその俳優たちは、初めて「お客さん」の存在を知り、戸惑った、ようにも見えた。後半、戯曲の迫力が増すにつれて、彼や彼女たちは舞台での立ち方を知り、互いの関係を知り、そして、ようやくお客さんとの関係の取り方も少しずつ把握していったのだ、と感じた。こうした戸惑いは、決して、俳優が未熟だからとか、演出が下手だから生じた、ということではない。戸惑いというものに対して、強者としての固定した身体で立ち向かうのではなく、それを柔軟に受け入れる(委ねる)方向を目指しているから、生じるのだ。そしてこの戸惑いは彼らの中に取り込まれ、吸収され、何か別のものになって本公演で花を咲かすだろう。と信じてる。


演出家の中にあるイメージを、俳優に植え付けて固着させるというやり方で、訓練を通して、いわば俳優がただ役(キャラ)になっていく、ということであれば、もっと最初(プレビューとしてお披露目する時点)からハイクオリティになる確実性は増したはずだ。けれども時間堂は、少なくとも今回に関しては、そういう訓練の仕方をあえてしてこなかったのだと思う。彼らは、お客さんという存在を受け入れ、通過させることのできる身体。お客さんと出会える身体。を、舞台の上に現わそうとしてる、のだと思う。俳優を、舞台の上で生きさせる(あるいは死なせる)困難(だが演劇の土台的な部分)に、チャレンジしてる? というか。




この期間中、時間堂の演出ノート(ブログ)に、こんな言葉があった。「死守せよ、だが軽やかに手放せ」と。なんだか、かっこいい。ピーター・ブルックの言葉らしい。さて、では彼らはいったい何を死守し、何を手放すのか? そこが『月並みなはなし』の見所だと思ってる。それを観に行く。手放される瞬間を。


以下は演出ノート20より。

私たちは生まれて、死んでいく。それだけだ。

演劇も、毎公演生まれて、死んでいく。演劇をかこむわたしたちは、祝福して、手厚くとむらってやるだけだ。

そのためにまず自分が、毎日死んで、生きないと。

自分たちの過ごしてきた時間を信じること。他人に委ねること。演劇に頼ること。

自分を信じてやらないと。けっこう出来る子なんだから。

堕落について。


しかし率直にいって、ここ数日、言葉を書くということにかんする絶望感が増しつつある。すべて、言葉というものを奪い去りたい衝動というか。とはいえ、何かを観て、湧いてくるものが言葉であるということもまた事実であって、ようは、それを、しかるべきところに収めきれていない、という感覚が、あるのかもしれない。そして、言葉はすべての物自体にとって、たんなる邪魔者ではないか、という疑いも生じる。


だがなんだろうな。自分としては、ただ、嘘をつきたくないということだけだ。


ふと、思うのだけど、批評というものと、書くことに伴うある種の快楽と、それから世間的な評判や宣伝効果といったものは、本来まったく別のものなのかもしれない。ところが、それらがごっちゃになってしまって、それで全体に、批評の衰退、みたいなことが、なし崩し的に進行してしまうのかもしれない。


今回の第二期エクス・ポをつくっていて、非常に安心していられるというか、信頼できるのは、前パブをやらないことにしている、という点で、つまりは直接的な宣伝媒体としてはほとんど役に立っていない、という点にある。宣伝、という感覚に支配されてしまうと、いやおうなく商業主義的なこととか、悪い意味での読者の顔なんかが見えてきてしまって、中身のクオリティが、こういう言い方は適切ではないかもしれないが、堕落する。


その堕落は避けたい。


もうたぶん、仕事をする方向とか、見てるものとかが、前とは違ってきてる。